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毎週の礼拝で語られているメッセージを紹介しています。

真の神に出会うために

「 真の神に出会うために 」 使徒の働き8:26~40   7月15日

 今日の箇所には、人はどのようにして真の神に出会うことができるのか、どのようにして神の救いに与かるのかが記されています。そして、それとともに、神の働き人・伝道者のあるべき姿をも示しています。

1.人はどのようにして真の神に出会うことができるのか。
27節に、エチオピア人の宦官が出て来ます。「彼は礼拝のためエルサレムに上り、帰る途中であった」。アフリカのエチオピアから、はるばる、神を礼拝するために、エルサレムに上ったというのですから、真の神に対する渇きがいかに大きなものであったかが分かります。
 しかし、真の神に出会ったという確信と言いましょうか、真の神に出会ったという体験をまだしていなかったようです。そして、その帰る途中、「彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた」のです。多分、それまでは持っていなくて、エルサレムで新しく買い求めたものであったかもしれません。
彼はイザヤ書を声を出して読んでいたのです。そこで、ピリポが「あなたは、読んでいることが分かりますか」と尋ねたところ、「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」と答えたのです。彼の改心のためには、導いてくれる人、聖霊に満たされ、神ご自身に導いてくれる人が必要だったのです。
 そして、彼が読んでいた箇所がイザヤ書53章であったのです。イエスの十字架の死を預言する箇所であったのです。そして、尋ねたのです。「預言者はだれについてこう言っているのですか。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか」。ですから、聖書の中心メッセージを読んでいたのですが、その意味することを理解することができなかったのです。
 35節、ピリポはイザヤ書53章から始めて、イエスの福音を彼に伝えたのです。イザヤ書53章は、イエス・キリストの十字架の死の預言であり、このお方によって信じるすべての人は罪を赦され、神の子どもとされる福音を伝えたのです。
 そして、36節、「水があります。私がバプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」とありまして、宦官はピリポから洗礼を受けたのですが、
37節が飛ばしてあります。欄外を見ていただきますと、37節を加えてあるものもあると、あります。ここでは、しっかり宦官の信仰告白が記されています。
 ですから、人が救いに与かるには、聖書に記されている救い主イエス・キリストを神の御子であると信じることによりもたらされることがわかります。
イエス・キリストは私の罪のために十字架の死を受けられたことを信じた者が
神の救いに与かったという体験をするのです。

2.ピリポ
 エチオピアの宦官をイエス・キリストに導いたのはピリポです。
このピリポの姿に神の働き人・伝道者のあるべき姿を見ることができます。
ピリポの働きによって、8節にあるように、サマリアの町に大きな喜びが起こりました。そこに留まって、さらに働きを進めるべき中心人物とも言えます。
 しかし、神のお考えは違っていました。26節、主の使いはピリポに「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい」と告げたのです。しかもそこは荒野でした。救いに与かった者たちが喜び集っているサマリアの町から、荒野に行けと神はおっしゃったのです。
 人は成功するとその場所に留まっていたいものです。成功をおさめた貢献者として、人々からの称賛を受けていたいという誘惑は強いものであると思います。しかし、そこに留まり続けるならば、何か自分が偉いかのごとくに錯覚して傲慢になる危険があるのです。
 なぜ、神はサマリアの働きから、ピリポを別な場所に導かれたのか、しかも、人のほとんどいない荒野に導かれたのか、その理由は彼が傲慢になることのないためでした。

 それとともに、一人の人のいのちの尊さ、一人の人の存在の尊さにしっかりと心を向けるようにということであったと思われます。
 あのマザー・テレサは、〝愛の尊さは一人の人にどのように向けられたものであるかが大切である〟と語りました。また、〝私はその人の内におられるイエスに仕えているのです〟とも語っています。それゆえに、マザー・テレサは、道に行き倒れになっている人に手を差し伸べたのです。

 ピリポはリバイバルに沸くサマリアを後にして、一人のエチオピア人の宦官に導こうとされた聖霊に従ったのです。
〝一人の人の魂は地球より重い〟とのいうことばを耳にしたことがあります。
私たち一人一人はかけがいのない存在です。神はそのかけがいのない私たち一人一人に限りない愛を注いでくださっています。
 その測り知れない神の愛のゆえに、私たちもまた救いに与かったことを覚えて感謝をささげたい。