カテゴリー別アーカイブ: 礼拝メッセージ

毎週の礼拝で語られているメッセージを紹介しています。

教会の祈り

「教会の祈り」  使徒12:1~17            11月11日

 

ヘロデ王がヨハネの兄弟ヤコブを殺害するということが起ったのです。これ以前にも迫害はありましたが、それはイエスが救い主であるとする人々が増えて行ったために、それを恐れて、当時のユダヤの宗教的な指導者たちによるものでした。彼らは自分たちの宗教的、社会的立場を失うことを恐れたのでしょう。執拗ないやがらせを繰り返していました。しかしこの時に到って、ヘロデ王が迫害を始めたのです。国家の支配者による迫害です。動機は3節に「それがユダヤ人に喜ばれたのを見て」とありますが、ヘロデは自らの地位安泰のために、ユダヤ人たちに取り入ろうとして、ユダヤ人の迫害者たちに加担する者となったのです。

1.ペテロが捕らえられて、教会はどうしたか。

この時、教会にとっては危機的な事態の中にありました。教会の指導者の一人であるヤコブはすでに殺害され、今度はペテロが捕えられた訳ですから・・・。 この時、教会はペテロが捕縛されるという危機的な状況下にあって、神への愛、神への信仰を、神に祈るということをもって、最終的な拠り所としたのです。

どこの国の言語でも文法があります。ギリシア語にも勿論文法があります。そして、ギリシア語の面白いところは、強調したいことばが、ある意味で文法を超えて、前に出て来るのです。5節では、ペテロが牢に閉じ込められていることが記された後、ギリシア語では「祈り」ということばが最初に記され、その後に、熱心にとか教会とかということばが続くのです。ですから、ギリシア語では、特に強調したいことは何か直ぐ分かるようになっているのです。

この使徒の働きを記したルカは何にもまして強調したかったことは、「祈り」であったのです。教会は神に祈ったのです。教会に与えられている特権の一番、大切なこと、教会のいのちともいえるものは、心を合わせて祈るということなのです。

2.教会としての祈り

信仰の本質的なことは神との生きた交わりです。かつては神を知らず、神との交わりのなかった私たちですが、イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、罪を赦され、神との交わりの回復を許されました。その神との交わり・神に聞き、神に語るという神との交わりが深められ、喜びと感謝に満たされて、神のみかたちに形造られて行くことが、神を信じる者に与えられた特権であり、あるべき姿でもあります。

そればかりではありません。私たちが神のみかたちに形造られて行くことが、神の栄光の現れなのです。私たちが神との生きた交わりに感謝して生き、キリストのみかたちに形造られるは、神の栄光に関わることなのです。ですから神の栄光に関わる特権を与えられているのです。 そして、私たちが神のみかたちに形造られて行くことにおいて、それは、すべて神の恵みなのですが、私たちの信仰(私たちの意志を伴う信仰)が関わっているのです。

オズワルド・チャンバースという方が、私たち人間の側の意志に関して、次のように言っています。“私たちの霊的成長において、神は直接、私たちの生まれながらの性質に手を下される訳ではない。私たちにその生まれながらの性質(自己中心)に気づくようにされるが、神に聞き従うという意志を働かせるのは、私たちの側ですることである”。

神は全能の神です。神におできにならないことはありません。しかし、神は私たちの人格、私たちの自由意志を尊重してくださる方です。神は私たちに対する愛のゆえに、私たちが神に聞き従う意志を働かせることを、何よりも大事にされるお方です。

その神との交わりが深められるために大切なことがあります。ジョン・ウェスレーはそのことを恵みの手段と言いました。◇みことばの学び:聖書を一日1章読むと、3年余りで全部読むことができます。毎日、1章読むと言うのは中々大変と思われる方は、1章の中の一段落、ないしは2段落でも良いですから、聖書をお読みになることをお勧めいたします。◇祈り:みことばに親しみ、神からの語りかけに心をとめ、祈りをささげることです。祈りにおいて大切なことは、本当は話すことではなく、聴くことにあります。神に聴くことが祈りにおいて最も大切なことなのです。

生き生きとした信仰は、神の恵みとともに私たちの願い、そして私たちの意志にかかっているのです。

そして、教会としての歩みも大切なのです。個人的な神との交わりは、信仰の基本であり本質的なことですが、それでは、信仰は個人的に持っていれば良いかというと、教会としての歩みが大切なことなのです。個人的な信仰、個人的な祈りとともに、教会としての信仰、教会の祈りが大切なのです。ペテロが捕えられるというこの危機に際して、教会は祈らないではおれなかったのですが、それは神の摂理の中で大切な学科を学ぶことにもなったのです。それは教会の祈りが教会を一つにし、迫害にもくじけない神への信頼を育んで行くという学科を彼らは学んでいたのです。教会が心を合わせて祈ることは、教会のいのちと言ってもよいものなのです。

3.教会の祈りの内容。

皆さんは、教会はペテロのために何を祈ったと考えられますでしょうか。“神様、ヤコブはすでに殺害され、今度はペテロが捕えられて殺されようとしています。神様、あなたは教会の働きをどうしようとしておられるのですか、どうぞ、ペテロを救い出してください”。多分、そのように祈ったと私たちは考えるのではないでしょうか。しかし、聖書をよく見ますと、少し違うのではないかと考えられます。ペテロが解き放たれたということを聞いて信じることができないでいる姿(13~15節)があります。彼らの反応を見ると、「それはペテロの御使いだ」とまで言って、信じようとしないでいる姿があります。

また、当人ペテロを見ますと、「彼には御使いのしていることが現実とは思えず、幻を見ているのだと思っていた」(9節)とあります。このように見て来ますと、ペテロ本人もそうですが、教会が彼のために神に熱心に祈り続けていたのは、ペテロが解き放たれるということよりも(それも祈ったと思いますが)、それ以上に、ペテロ自身のために、彼の信仰が支えられるように、彼に神からの平安が与えられて、彼の神への献身が支えられるように祈ったのではないでしょうか。

4節に「ヘロデはペテロを捕えて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた」とあります。ですから、非常に厳重な監視下に置かれていたことがわかります。しかし、そのような中でペテロは「眠っていた」のです。先にヤコブは殺害されて殉教しました。今度は自分の番です。処刑の前夜、どんなにか恐れのゆえに不安な気持ちになってもおかしくない。

詩篇3:5,6「私は身を横たえて眠り また目を覚ます。主が私を支えてくださるから。私は幾万の民をも恐れない。彼らが私を取り囲もうとも」とありますが、ペテロは、生きるにしても死ぬにしても、ペテロは神に一切をゆだねることができ、神からの平安を与えられて休むことができたのだと思います。たとえ殉教という形で神に召されることがあっても、それが神のみこころであるならばそれを受け入れます、との覚悟が出来て、ゆだねることができたからなのでしょう。この時、ペテロを助け出すことは神の最初からのお考えであったのですが、それとともに、ペテロの神にゆだねた信仰と、教会が彼のために祈っているゆえに、神はこの不思議なみわざをなさったのであるかも知れません。

個人の祈りとともに、教会の祈りは、神がみわざをなるために大切なものなのです。私たちがもし自分は信仰に立っていると思うならば、それは今も生きて私たちのために執り成しておられるイエスのゆえです。そしてそれとともに、あるいは誰かの執り成しの祈りのゆえに、教会の執り成しの祈りのゆえに私たちは存在を許されているのかも知れません。そして自分が誰かに、あるいは教会に祈られていることに気づくならば、その人は、祈る側の重荷も与えられることでしょう。個人で祈るとともに、私たちの教会も、心一つにして祈る教会であらせていただきたいと願います。