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目をさまして

「目をさまして」 マタイ25:1~13          1月15日

 

イエス・キリストは十字架による贖いの死からよみがえって天に帰られました。

そして、新約聖書はそのイエス・キリストがもう一度来られると預言しています。

ですから、救いに与った者は、聖書が預言しているように、イエス・キリストが再び来られるので、その備えをするようにと聖書は私たちに語っているのです。

 

1.たとえ話しの舞台

「結婚の宴会」が舞台となっています。イスラエルの婚礼は、まず花婿が花嫁の家に来て、前祝いともいうような祝宴が開かれ、次いで花嫁を伴って花婿の家に行き、本格的な祝宴が行われたのです。その時に、花嫁の家で花婿を迎える役目と、さらに二人を花婿の家へ送って行く役目をした若い女性の一群が「十人の娘」であったのです。

2千年前の時代ですから、現代のように照明が行き届いていた訳ではありません。灯りを照らすともしびはなくてはならないものであったのです。花嫁の友人たちはそのことをもって、婚礼の大切な役目を担い、また婚礼の喜びを共にしたのです。

「そのうち五人は愚かで、五人は賢かった」(2節)とあり、動詞は未完了形が使われています。動詞が未完了形というのは、その時たまたま愚かであったとか、その時たまたま賢かったというのではなく、普段から、いざという時の用意が出来ていなかった、あるいは普段から用意が出来ていた、ということを表しています。

なぜ愚かで、なぜ賢かったのか、3、4節にその理由が記してあります。

十人の娘たちは皆、ともしびを持っていました。この点では十人とも問題はなかったのです。問題は「油」でした。愚かな娘たちは予備の油を用意しておかなかったが、賢い娘たちは入れ物に予備の油を持っていたのです。

 

2.違いが明らかになる時が来る。

5節「花婿が来るのが遅れたので」とありますが、十人の娘たちの違いは、花婿が来るのが遅れたことによって明らかとなったのです。何もない時には、わからないことも、突発的な出来事などで、それが明らかになるものです。

十人の娘たちは、花婿が来るのが今か今かと待っていたのだと思うのですが、花婿はなかなかやって来なかったようです。それで、「みな、うとうととして眠り始めた」とあります。ですから、夜もふけて真夜中になっていたものと考えられます。

夜中になって、「そら、花婿だ。迎えに出よ」と叫ぶ声がして、娘たちは起きて、自分のともしびを整えたのです。

「迎えに出よ」ということばは直訳すると、「出会いの中に出て来い」となります。

そして、この「出会い」ということばは、偉大な人物と出会う場合に使われることばなのです。花婿はキリストを表していますが、そのお方に出会うのだから、迎えに出よ、ということを表しています。

この時は、待ち時間が相当経過していましたので、どの娘のともしびもかすかに燃えている程度で、ほとんど消えかかっていたのでしょう。その時、「愚かな娘たち」の間に問題が起きたのです。予備の油を用意しておかなかったからです。

そこで、愚かな娘たちは、「油を少し私たちに分けてください」と言ったのです。

それに対して、賢い娘たちは答えて言いました。(9節)

そこで、買いに行くと、その間に花婿が来て、用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられてしまった、というのです。

皆さんの中には、聖書は愛を大切なこととして「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とあるのだから、困っている娘たちに愛を示して、少し位分けてやれば良いではないかと、感想を持たれる方があるかも知れません。しかし、ここはそのようなことを語っているのではないのです。

 

3.人から借りることの出来ないものがあります。

私たちには、人から借りることのできるものもあります。しかし、人から借りることの出来ないものもまたあるのです。本当に大切なものは、人から借りることは出来ないのです。

神との関係は自分が持つべきものであって、他人から借りることのできないものです。神と生き生きとした関係を持ちたいと願うならば、それは、自分自身が神と親しく交わることです。それは他人から借りることはできないのです。

品性にしてもそうです。品性は自分のものであって、人から借用はできないのです。

人生もそうであると言えます。自分の人生は他の誰かのものを借りて歩むというわけには行かないのです。自分に与えられた人生は、神を仰いで生きて行くところに意味があるのです。本当に大切なものは、人から借りることはできないのです。

「それぞれがともしびを持って」(1節)とありますが、「持って」ということばは、元々は「受け取って」という意味です。ですから、ともしびは他から与えられたことを意味しています。私たちは神の救いに神の一方的な恵みによって与りました。神から受けたのです。そして、「油」は、他からのものではないことを示しています。他からのものではないと言いましても、勿論、神の恵みによって備えられるものですが、神に会う備えの責任は、それぞれ各自にあることを示しているのです。

神の救いに与った者は、神にまみえる責任を各自が負っていると言ったならば良いのかも知れません。と言うより、神は私たちの為すべき分を与えていてくださっていると感謝するべきなのだと思います。

このたとえの娘たちは、花婿が来るのが遅くなって、十人全員が眠ってしまいました。しかし、眠ったこと自体は何も非難されていません。ですから、「目をさましていなさい」というのは、眠るな!ということを言っている訳では勿論ありません。

そうではなくて、イエスがもう一度来られるということは、聖書が確かなこととして私たちに語っているのであるから、イエスが何時再臨されても良いように神に会う備えに心を用いて日々の生活をしなさいということなのです。

聖書の預言の通りに救い主イエス・キリストは来てくださいました。

それゆえに、私たちは神の救いにあずかることができました。聖書はそのお方はもう一度来られると預言しています。その時、主にまみえる備えをさせていただく特権と恵みにあずかっていることを覚えて神を賛美いたしましょう。