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一つのからだ

「一つのからだ」 Ⅰコリント12:12~27     8月26日

今年の夏の甲子園野球大会で、準優勝した金足農業高校は、監督の考えなのでしょうが、秋田県の予選大会から、甲子園大会すべて、9人の選手を一人も変えなかったのです。私は金足農高が取り入れた選手を一度も代えない9人野球に、神からのメッセージがあると受け止めましたので、それを語ることにします。

1.私たち一人一人はかけがいのない存在である、代えがきかない存在である。
 14節「実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています」とあります。15節には手と足、16節では耳と目が出てきます。
手は手の働きをし、足は足の働きをし、耳は耳の働きをし、目は目の働きをするから、私たちのからだは活動できるのです。それは、代えがないということです。
 私たち一人一人は代えの利かない、かけがいのない一人一人なのです。
たとえ、年をとっていても、いえ、病気であったとしても、そして、からだのどこかに不自由な部分を抱えていたとしても、いえ、今、いろいろな課題を抱えて悩んでいたとしても、にっちもさっちも行かない状況の中に置かれていたとしても、かけがいのない存在なのです。なくてはならない存在なのです。
 21節「目が手に向かって『あなたはいらない』と言うことはできないし、頭が足に向かって『あなたがたはいらない』と言うこともできません」とありますが、なくてはならない存在なのです。私たち一人一人は代えがきかない存在なのです。

2.統一と調和
 12節「からだが一つでも」とありますが、「一つ」ということばがこの箇所に10回も出て来ます。ですからこの箇所を理解する鍵は「一つ」ということばであり、「一つ」とは統一されている、調和があるということです。
 金足農高の選手たちは一つとされていましたですね。
しかし、普段の練習ではかなりお互いに対して厳しい目を向けるのだそうです。誰かが気の抜いた動きやミスをすると、それを厳しく指摘するのだそうです。
失敗を、まあまあいいではないかとする姿勢から真剣な練習は生まれないでしょうし、一つとなって困難に立ち向かうことはできなくなることでしょう。
改めて普段の姿勢、普段の有り方がいかに大切かを知る思いがしました。
そして、金足農高の選手たちは、普段の練習ではお互いに対しても厳しいのですが、本番の試合での失策などには、一切、注意することなく、それを笑顔で受け止め、失策した選手を励ますのだそうです。すごいなと思いましたですね。
厳しさと寛容の相反するものを正しく認識して持っているので、すばらしい一致を持つことができたのだと思います。9人の選手と監督、そして試合に出ることのできなかった控え選手をも含めて、一つとされているすばらしいチームだと思いました。ですから、多くの人々に感動を与えたのです。

私たちのからだは本当に不思議にできています。本当に不思議な統一と調和があります。25節に「からだの中に分裂がなく」とありますが、私たちは普段、自分のからだのことをそんなに意識しないのですが、私たちが普段、からだに何の違和感をも覚えることなく生活できているのは、からだが不思議な調和で保たれているからです。
 パウロは、そのように不思議に調和の取れたからだにたとえながら、教会はキリストのからだなのだと言っているのです。キリストにあって調和が取れていること、それが教会の本来の姿であると言っているのです。

3.教会の調和とは
 22節「それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです」23節「また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます」欄外を見ていただきますと、(別訳)「いっそうの尊敬をもって」とあります。
 尊敬されるべき立場の人に敬意を払うのはある意味で当然のことですし、勿論、大切なことです。しかし、聖書が強調している中心的なことはそのようなレベルのことではないのです。聖書が大切なこととして強調しているのは、「からだの中で弱く見える部分が、かえってなくてはならない」存在であり、「劣っていると思う部分にこそ尊敬をもって」接するようにと語っているのです。
 キリストのからだである教会は、弱く見え、劣っていると思う部分が尊ばれる時に、教会の調和となるのです。それが教会の存在理由そのものなのです。
世の中は、自分が偉くなることを求め、自分は偉いんだと誇る世界であると言えます。しかし、教会は誰か人が誇る世界ではありません。イエス・キリストの贖いのゆえに神をほめたたえることはあっても、人間が自分を誇ることのない世界、それが教会です。それゆえに、教会はキリストのからだとして、世の中にはない、弱く劣っていると見える部分が尊ばれるという調和が存在する世界なのです。

 最後に一つの話をして閉じることに。
世界のいろいろな所で使われているメイド・イン・ジャパンの道具などを、その製作者である日本人の職人と海外の使用者との交流の橋渡しをしているテレビ番組があります。その番組に出て来る職人たちは皆、地方の家内工業のような所で、のこぎりであったり、トンカチであったり、いろいろなものを作っているのですが、それが海外にまで渡って行って使われていることに皆、一様に驚くのです。そればかりではなく、それを使っているのが、有名なバイオリン修理工房であったり、有名な芸術家であったりして、彼らは皆一様に日本で作られた道具のすばらしさに感謝して、この日本の道具なくして、自分の仕事はできないと称賛しているのです。そのことを知らされた日本の職人たちは、自分たちの作った物を評価して喜んでくれる存在に、お金や何かに変えることのできない喜びと生き甲斐を見い出しているのです。職人の人たちが皆一様に言うのは、〝自分たちの作ったものが、あのような人たちに使っていただいてお役に立っていてこれ以上の喜びはない〟。

 私たちの生涯が、そして私たち自身が誰かのお役に立つことができたならば、こんなにうれしいことはありません。そして、何にもまして、私たちがイエス・キリストのお役に立つことができたならばこんなに光栄なことはありません。

 いえ、イエス・キリストは私たちのような小さな者、いえ、私たちのような罪深い者を造り変えて、神様に喜ばれる存在とせんために、十字架にかかってくださったのです。誰であれ、イエス・キリストを信じて心にお迎えするならば、誰でも、神様に喜ばれる存在となることができるのです。
 どうぞ、イエス・キリストを心にお迎えください。先に救いに与かった者として心からお勧めいたします。