聖霊に遣わされて

「聖霊に遣わされて」 使徒13:4~12         1月13日

第一回目の伝道旅行に遣わされたのはバルナバとパウロです。

1.4節に「ふたりは聖霊に遣わされて」とあります。

Ⅰコリント12:3に「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」とあります。 「イエスが主です」ということばは、イエスが神の御子であり、イエスが十字架にかかってくださったのは、すべての人間が神から離れているという罪のための身代わりの死であったことを認めることができた時に、そして、その罪人の一人がこの私であるとわかった時に、口から出て来ることばです。そして、これまで神に心を向けることなく生きて来たが、今から、神に心を向けて生きて行きます。神を信じて、神のみことばに心を向け、神に祈って生きて行きます。それが「悔い改め」です。そして、罪を認め、悔い改めに導いてくださるお方は聖霊です。

バルナバとパウロは、聖霊に遣わされて、未だ福音が伝えられていない地に向かったのです。 そして、3節にもありますように聖霊の語りかけを受けて、彼らを送り出したのは教会です。ですから、アンティオキア教会のクリスチャンたちは、バルナバとパウロを祈りをもって送り出し、派遣した後もふたりのために祈り続けたことでしょう。祈りなくして神の働きが進められることはありません。

「使徒の働き」の鍵となることばは、「聖霊」と「祈り」です。聖霊が働かれるところには必ず祈りがあります。そして、祈りがあるところには、必ず聖霊は働いてくださるのです。聖霊と祈りによって、神の働きは前進するのです。

2.まず、二人はどこに向かったか

彼らはキプロスに向かいました。バルナバの郷里です。この旅行の最初のころ、リーダーを取っていたのはバルナバでした。ですから、バルナバの郷里をまず目指したのだと考えられます。 そこには友人、知人、あるいはバルナバの家族もいたかもしれません。聖霊なる神は二人をキプロスに導かれたのです。

イエス・キリストに出会い、罪赦され神の子どもとされ、神を信じて生きるという信仰の世界に目が開かれたならば、そのことを身近な者に伝えないではおれないことでしょう。その救いに家族も与ってほしい、友人、知人にも与ってほしいと願って、そのために祈ることでしょう。パウロは後に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(16:31)と言いました。家族が救われるには時間がかるかもしれません。しかし、みことばを信じて祈り続けるお互いでありたいと願います。愛をもって誠実を尽くし、信じて祈りたいと思います。

3.サウロからパウロに

9節に「しかし、サウロ、別名パウロは」と、さらっと、名前が変わったことが記されています。サウロはこの時から、自分の名前をパウロとしたのです。 聖書で何人かの登場人物の名前がそれまでのものから、名前を変えられていることが記されています。アブラムがアブラハムに名前を変えられ、妻サライはサラと名前を変えられました。そして、ヤコブはイスラエルと名前を変えられました。それぞれが、信仰が新たにされるという重要な転機の時に名前を変えられたのです。

そして、ここで、サウロはパウロと名前を変えたのです。サウロはベニヤミン族の末裔でした。イスラエルの最初の王とされたサウルもベニヤミン族の出です。ですから、サウロという名前は由緒のある名前であったと考えられます。ですけれども、サウロはそのユダヤ人としての誇りある名前を捨てたのです。 そして、自分をパウロと名乗ったのです。パウロとはギリシア名です。そして、パウロという名前の意味は「小さき者」という意味です。パウロは聖霊に満たされ、自分に与えられた使命をはっきりと自覚し、覚悟を新たにして、自分が小さき者となって使命の道を歩むように導かれたのです。いえ、「小さき者」という自覚なくして、使命を果たすことができないことに目が開かれたのです。

イエス・キリストは神の御子であるのに、謙って人となって私たちの世界に来てくださいました。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)とヨハネが言ったことは、私たち人間には測り知ることができない驚くべき出来事であることでしょう。そして、最後には十字架におかかりになりました。十字架の贖いによって、信じる者は神の救いに与かるという福音が確立されたのです。そして、その福音を委ねられたパウロは、自分に与えられた特権とその恵みのゆえに、自分は小さき者です、と言わないではおれなかったのです。その小さき者と名乗ったパウロの働きによって福音が異邦人社会に、そして、全世界へと伝わって行ったのです。私たちも、自分になされた神の計り知れない恵みに感謝して、「小さき者」という自覚が与えられて、それゆえに、大胆に救い主イエス・キリストの計り知れない愛、計り知れない恵みを証ししたいものです。