私たちの心に注がれている神の愛

「私たちの心に注がれている神の愛」 ローマ5:1~11    1月6日

山田洋二監督による『学校』という映画があります。いろいろな事情で義務教育を学び終えることができなかった人々のために夜に開かれている夜間中学を舞台にした映画で、クラスの生徒は八人、いろいろな境遇から集まった生徒たちで、生徒一人一人の状況が回想場面を含めて丁寧に紹介されて行くのです。そして、田舎に帰って病気療養していた生徒であり、みんなの仲間が亡くなったという知らせが届きました。その知らせを聞いて、クラスで彼を偲ぶ時を持つのですが、いろいろと想い出を話して行くうちに、「幸福」とは何なんだろうということになりました。「お金」だという声も出ました。しかし、そうではないと皆分かっているのです。自分を受け入れてくれる存在、自分を受け入れてくれる所があった、それが「幸福」なんだ、ということは皆も分かっているのです。

そして、もう一人の主人公とも言える、小学・中学と不登校であったけれども頭の賢い女の子が高校に進学すること、そして大学に進む決心をするのです。それを男性教師に伝え、自分は教師になってこの夜間中学で教えたいと言うのです。 一人の人の生き方、結婚もしてない中年の男性教師の、しかし、愛情と熱意をもった一人の教師の真実な生き方が、後に続く者を起こしたのです。

一人の人がどう生きるか。それはとても大きなことなのです。私たちも自分に与えられたいのちをどう生きるかはとても大切なことなのではないでしょうか。

このローマ人への手紙を記したのはパウロです。イエスに従う者たちを異端者であるとして、迫害を加えたパウロです。しかし、そんなパウロが、自分に現れてくださったイエス・キリストに出会って、その生涯が全く変わってしまったのです。

1節「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」。パウロは神との平和を持っていると言いました。別なことばでは、10、11節に「和解」ということばで3回出て来ます。

皆さんも人と仲良く暮らせたらと願っておられることでしょう。誰であっても、人といがみ合って暮らしたいと願う人はいません。しかし、現実はいかがでしょうか。身近な存在とも、なかなかお互い受け入れることが困難なことが現実にはあるのではないでしょうか。 私は仏教の教えを詳しく知っている訳ではありませんが、仏教の教えるところは性善説でしょうね。人はもともと善なる存在とする考えです。ですから、世の中には悪いことをする人もいるけれども、少なくとも、私は、自分は、悪い人間ではない。日本人の多くの方はそう思って生きています。私もそうでした。45年前に初めて教会の門をくぐって、毎週の礼拝で、聖書から「罪」ということが語られる度に、私は弱い存在であるけれども、少しはましな人間であると心の中で反発を覚えた記憶があります。

しかし、神さまはあわれみをもって私に語り続けてくださいまして、イエスが十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのか分かっていないのです」(ルカ23:34)と言われた、自分が何をしているのか、自分がどのような人間なのか分かっていない、それは、正しく私自身であることが分かったのです。

聖書の語っていることは、すべての人が罪人であって、他の誰でもない、自分自身が罪から救われること、自分自身が神の恵みによって変わることができる、生まれ変わることができる、という点にあります。あの人が、この人がどうのこうのではなくて、自分自身が神の救いに与かることが最も大切なことであると聖書は語っています。自分が神の恵みによって生まれ変わったならば、周囲の人をも、神が変えてくださる道が開けるのです。

私は昨年のクリスマス節季を送る中で、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(受肉)ということばをずっと思い巡らしていました。神の御子キリストが人となって、私たちの間に住み、生活をしてくださった。それはどういうことなのだろう。 先ほど、山田洋二監督の映画「学校」のことを紹介しました。西田敏行演じる教師が、悩み・悲しみ、そして喜びをも生徒たちと共にしながら、生徒たちに愛情と誠意の限りを尽くしたこと、そのことがいかに大きなことであるか、一人の教師の生き方が、社会的な環境において決して恵まれていないであろう人々の心に光を灯したことをお話ししました。

しかし、イエスのなさったことはその比ではありません。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」。イエスが人となって、私たちの世界に入り込んでくださったことは、その比ではありません。 イエスは神の御子であるのに赤子となって私たちの世界に来てくださって、33年余りの生涯を送ってくださいました。へブル人への手紙を記した記者は「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです」(4:15)と言いました。

イエスは、私たちと同じ人となって憂き悩みをなめてくださったのです。そして、最後には十字架にかかられたのです。罪のない唯一のお方、イエス・キリストが十字架に付けられたのです。 私たちは、イエスの十字架の死によって、神との和解を持つ者とされたのです。イエスの十字架の死によって、罪を赦され、神と和解することが許され、神との平和を持つ者とされたのです。 ですから、2~5節とパウロは言い得たのです。苦難さえも喜ぶことができる世界、私たちのような者の品性が練られ、どのような状況の中でも希望を持つことのできる世界が開かれているのです。誰にでも開かれているのです。

誰も自分が持っていないものを、他の人に与えることはできません。人に親切に振舞うことは大切なことです。また困っている人の手助けをすることもすばらしいことです。しかし、私たち人間にとって、最も大切なこと、最も意味あることは、平和をもたらすことであり、和解をもたらすことなのではないでしょうか。人との平和、人との和解ほど大切で価値のあるものはありません。

そして、人との平和、人との和解は、神との平和、神との和解を持つことを許された者が、もたらすことができるのです。罪赦され、神の救いに与かるなら、人を赦し、人を愛する心が与えられ、人と和解をする道が開かれるのです。 私たちもそのように歩むことができます。そのように生きることができます。人との平和、人との和解、それはそんなに容易なことではないことでしょう。苦難が伴うかもしれません。忍耐しなければならないことも多くあることでしょう。しかし、私たちの心には、聖霊によって、神の愛が注がれています。神の測り知れない愛が私たちの心に注がれています。そのお方によって、私たちも神の愛に生きるお互い、そして、「平和」と「和解」をもたらす者とさせていただきたいと願います。