救い主にまみえた人々

「救い主にまみえた人々」 ルカ2:8~20       12月23日

クリスマスおめでとうございます。救い主イエス・キリストがこの世に赤子として来てくださったことを共に心から感謝し、賛美をささげましょう。

聖書を見ますと、ユダヤの民がずっと待ち望んで来た救い主(メシヤ)が来られたとき、多くの人々にわかるように来られたかと言うと、そうではないのです。ひっそりと、そしてある意味では、人々に知られることなく救い主は来られました。救い主を遣わすという神の約束はユダヤの民に与えられていました。しかし、神の約束が与えられてから長い年月が経過する中で、いつ、そのことが現実のこととして実現するのか分からない中で、民は待ちくたびれていたのかも知れません。ユダヤの民は自分たちの生活のことだけで精一杯という中にありましたので、メシヤを迎える心の備えが出来ていなかったのです。

しかしそのような中で、神はごく限られた人々にですが、その誕生を知らせられました。それで、今日は救い主に最初にまみえることを許された人たちのお話をします。

  1. 最初に知らされた羊飼いたち。羊は人間を表し、羊飼いは神を表していますので、羊飼いに対して私たちは良い印象を持っていることでしょう。しかし、 今から2千年前のこの当時は羊飼いに対する評価はちょっと違っていたのです。この当時、宗教に最も熱心であったのはパリサイ派と呼ばれる人たちでした。彼らは律法の一点一画まで守ることが、神を敬うことであると考えて厳格に律法を守ろうとしたのです。そればかりではなく、必要以上に様々な細かい規則をこれでもかこれでもかと定めまして、それらをも厳格に守ろうとしたのです。 ですから、律法を厳格に守れない羊飼いたちは当時、軽んじられる対象でした。しかし、主の使いは、人々から軽蔑され見下されていた羊飼いたち、「野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた」羊飼いたちに現れたのです。 羊飼いたちはしーんと静まり返った夜、厳粛な思いをもって神を仰いでいたのではないでしょうか。ですから主の使いが彼らに現れたのでしょうね。
  2. どのような印しをもって知らせられたのか それは何を意味するのでしょうか。このお方に対して、人々の注目を集める何かおふれが出た訳ではありません。人々の注目を集める何かきらびやかなものがあった訳ではありません。勿論、イルミネーションなんてものはありませんでした。 神であって何の制約も束縛も受けられる必要の全くないお方であるのに、私たちのために貧しくなってくださいました。パウロはこのことを「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた」と言いました。「富んでおられた」というのは神の栄光を現しています。そして「貧しくなられた」というのは、私たちと同じ人となられたということです。ですから、御使いが伝えたしるしは、上から下に降るしるしなのです。 私たち人間が求めているものは何でしょうか。下から上に行くことです。 しかし、救い主の誕生は、神の御子であるのに人となられたという上から下に降られたことであったのです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです」。そしてそのお方は「布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりご」だというのです。そしてそれが「しるし」だというのです。
  3. この知らせを知って、何がもたらされたのか。約束され、ずっと待ち望んで来た「救い主」が誕生されたと聞いて、羊飼いたちは出かけないではおれなかったのです。16節の「マリヤとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごとを捜し当てた」という言葉の中に、彼らの溢れんばかりの喜びが表れています。そして20節、「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」のです。聖書に「幼子、乳飲み子たちの口に賛美を用意された」(マタイ21:16)とあります。幼子、乳飲み子たちの口に賛美を用意されたということは、人にとって神を賛美することが、人の本来の姿であることを示しています。 しかし、私たちは神から離れて自己中心でしかあり得ない存在となりました。しかし、正にそのように神から離れてしまって自分ではどうすることもできないでいる私たちの罪の身代わりとして十字架にかかってくださるために、救い主は来てくださいました。それは、私たちが罪から救われて、もう一度、神を賛美する者とするためであったのです。 私たちの救いのために、「飼葉桶に寝ているみどりご」として来てくださったお方、  そのお方の誕生をともに祝うのがクリスマスです。そして、クリスマスは、あなたが救い主を心にお迎えするためにこそあるのです。