星が導くもの

「星が導くもの」   マタイ2:1~12        12月16日

今日の箇所を見ますと、東の方の博士たちは不思議な星を見たというのです。彼らは宇宙の不思議さの中で畏敬の念を持って、星を観察していたのではないでしょうか。そして不思議なことに、イエスの誕生を知らせる星を見たというのです。畏敬の念を持つ彼らに神の不思議な導きがあったのです。

博士たちは、都エルサレムにやって来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねています。「ユダヤ人の王」ですから、都エルサレムに誕生されたと彼らは考えたのは、ごく自然な考え方でしたが、キリストはエルサレムではなくベツレヘムで誕生されたことを知りまして、ベツレヘムに向かったのです。

そして、この聖書の箇所をよくよく読んでみると、聖書は不思議なことを記しているなあということを思わせられます。星が彼らを導いた、というのです。星が見えるのは夜です。この聖書の舞台であるパレスチナは砂漠が多く、昼は暑いものですから、旅を夜にすることは普通のことでした。しかし、見知らぬ土地に行って、まだ見知らぬ人を捜すのに、普通だったら明るい時間帯を選んでもおかしくない。その方が捜し易いのではないでしょうか。しかし、博士たちは夜出かけたようなんですね。日本の感覚で考えては間違っているのかも知れないのですが、真っ暗な夜、どのようにして捜し出そうと考えて行動したのか不思議な思いがいたします。

しかし、ともかく「星」が彼らを、ユダヤ人の王としてお生まれになった幼子の所に導いたのです。ユダヤ人たちは夜には星を見たことでしょう。しかし、彼らには、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」としての印である星を見ることはできなかったのです。このことは、待ちに待った救い主が誕生されたのに、神に対する渇きがなく、日々の生活に追われて神を仰ぐことを忘れていると、その人たちは大切なものを見失ってしまうことを教えているように思います。

しかし、今日はもう少し別な面から考えてみたいのです。今日は、星が見える「夜」という視点から考えてみたいと願っています。今日の本論に入る前に、ユダヤ人の歴史を少しお話しすることに・・。

今、イスラエルという国がありますが、現在のような形で国が建国されたのは1948年です。紀元73年にローマ帝国によってイスラエルは滅ぼされてから国が建国されるまで1875年間、ユダヤ人の国はなかったのです。国が滅びたのに、1800年以上経って、また国が建国されたというケースは私が歴史から学ぶ限りにおいては他にありません。第二次世界大戦の時には、あのナチスによって何百万人というユダヤ人が大量虐殺されるというところも通っています。しかし、ユダヤ人は残りました。そして1948年に国を建設したのです。そのような出来事は歴史的にもかつてなかったことです。また、普通あり得ないことです。

なぜ、ユダヤ人は1900年近くも生き残って国を再建できたのか、それは何と言っても、まず神のご計画の中にあったことであるからでしょう。勿論、そのことが一番の理由です。しかし、その他にも理由があったことを、歴史から学ぶことができます。それが今日ともに心を留めたいと願っていることなのですが、それは敗北して国を失い、世界各地に散らされたけれども、その敗北に耐え抜いた者が生き残ったということす。

歴史の中で、いろいろな帝国が興っては栄えましたが、皆、滅んでいます。それぞれの帝国は勝利すること、成功する道しか知らなかったのです。敗北から学んだり、敗北に耐え抜くことができなかったのです。勝利と繁栄に酔いしれていると、必ず傲慢になり、そして堕落の道を辿り、国は衰退し、そしてついに滅びるのです。全ての帝国は同じ道を辿り、そして全ての帝国は滅び去ったのです。

今、歴史からお話しをしました。このことは私たち一人ひとりに大切なことを教えるために、このような歴史が存在するのです。人はみな失敗や敗北を求めたりはしません。人はみな他人から称賛されることを、そして成功することを求めています。それは人から称賛されることは気持の良いことですし、自分の心を満足させることができますし、成功することを受け入れることはたやすいことであるからです。

それに対して、私たちは人から非難されたり、また自分の失敗を受け入れることは容易ではありません。非難や失敗や敗北をそのまま受け入れ、それに学び、耐え抜くことは容易なことではありません。そしてそれゆえに、非難や失敗・敗北に直面すると私たちは無意識の内にも無視しようとすることがあります。失敗や敗北をあたかもなかったかのように振る舞うのです。また、反対に、そのことを払い除けようとして、熱心に何かをするということによって、そのことに目をふさいでしまうということに現れることもあります。信仰の世界にもあります。非難や敗北に心を向け、自らを顧みることは辛いことですから、それには目を塞いで、熱狂的な信仰になるということがあります。

しかし、そのどちらの生き方も何の実も結ばない結果になるのではないでしょうか。それは現実逃避でしかないからです。自分の現実を、受け入れることなくして、何か良きものが育まれたり、あるいは聖書が示している神の喜ばれる聖霊の実を結ぶことはできないことでしょう。聖霊に満たされるということも、現実の事柄として自分の身になされないのではないでしょうか。

今、歴史的な観点からお話ししましたので、失敗とか敗北ということばを用いましたが、私たち個人的な事柄で言いますと、神から恵みをいただいて、自分と向き合うということです。自分はどのような人間なのか、ともすると罪に傾きかねないどのような弱さを持っているのか、どのような傷を抱えているのか、神の御助けを仰いで、自分自身と向き合いたいものです。

神は、救いに与った私たち一人ひとりが神に喜ばれる者となることを願っておられると思うのです。罪を赦され、救いに与ったことは計り知れない恵みです。どんなことばを持って感謝を表しても表し尽くすことはできないことでしょう。しかし、神は救いに与った私たちにさらに愛を注いでいてくださるのです。神は神ご自身の愛ときよい品性に与らせようと、私たちを愛して止まないお方であるのです。

パウロはガラテヤの教会の人々に向かって、「私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」(4:19)と言いました。パウロはイエスを信じて救いに与った人々のうちに「キリストが形造られる」ことを切に願ったのです。パウロをこのように言わしめたのは、神が愛なるお方であるからです。そして、パウロ以上に神は私たちのうちにキリストが形造られるために産みの苦しみをしておられるのではないでしょうか。その神のきよきみわざが私たちの内になされるために、私たちは謙虚に神の御前に出させていただきたいと思うのです。

自分のありのままの現実を認め、その現実を神の前に差し出す時に、自分の現実から逃避するのではなく、神の恵みによって、自分の現実に向き合うことができるのではないでしょうか。そこに神のみわざは豊かになされると思うのです。神の豊かなご品性に与ることができると思うのです。 暗闇の中でこそ、星は見えるのです。自分の暗闇を顧みる者に、イエスに導く星は輝くのです。ある人が言いました。“み顔(神の御顔)の写真は暗室で焼き付けられる“。写真の現像は暗室でします。暗室でなければ、焼き付けられることはないのです。

私たちの品性が本当に神のきよさにふさわしくされるのは、自分の暗室の中においてなのではないでしょうか。 神は愛なるお方です。そして、神は全能なるお方です。神は私たちの心の暗闇にも光を照らし、きよくしてくださるお方です。そのお方を信じてこの朝、自らをおゆだねさせていただきましょう。それが、神の御子が人となって赤子となって誕生してくださったクリスマスにふさわしい私たちのあり方なのではないでしょうか。