神とのコミュニケ―ション

「神とのコミュニケーション」 ルカ1:8~20        12/2

 

救い主イエス・キリストの誕生を待ち望むアドベントに入りました。今年のクリスマス礼拝は23日となりますが、それまでの期間、心を神に向け良き備えをさせていただきたいと願っています。

皆さんは、辻井伸行さんという盲目のピアニストをご存じでしょうか。2009年の6月に、バン・クライバーン国際ピアノコンクールで、若干20歳で優勝した方です。第三次審査まで進んだ12名が一人一人、オーケストラと共演することになり、リハーサルを行うこととなり、指揮者の方は、辻井さんが、目が不自由であるので、タイミングを合わせることをどのようにしたら良いかで、かなりの時間をとられてしまい、曲自体の練習に充分な時間を裂けなかったことを少し不安に思われたようでした。しかし、その指揮者の方は辻井さんとの演奏の本番を終えて、次のように語られたのがとても印象的でした。

“コミュニケーションとは聴くことです。辻井はコミュニケーションにおいて完璧であった。辻井はピアノを弾きながら、オーケストラの演奏と完璧な調和をもって演奏してくれた。ただただ驚くばかりだ”。

コミュニケーションとはお互いの意志の疎通です。お互いの考えや意志を伝え合うことであり、受け入れ合うことです。そのコミュニケーションにおいて大切なことは、聴くことなのだと改めて知りました。

そして、人間同士のコミュニケーションの大切さもさることながら、神のかたちに造られた私たち人間にとって、神との関係、神とのコミュニケーションはもっと大切なものなのではないでしょうか。今日は、二人の人物の姿から、神に聴く、神とのコミュニケーションをこれから見ることにいたします。

1.ザカリヤ

彼は祭司でした。そして彼の妻もまた、祭司の家系の出身者であったのです。6節に「二人とも神の御前に正しい人で、主のすべての命令と掟を、落度なく行なっていた」とありますが、二人は祭司の家系に生まれた者として、まじめに誠実に神の前に生きていた夫婦であったことがわかります。しかし、ただ一つだけ悩みがありました。それは、妻のエリサベツは不妊の女性であったということです。そして、ザカリヤは妻が身ごもるように、子が与えられるように祈り続けて来たのです。何十年も祈って来たのです。

そして、ユダヤの王ヘロデの時に、祭司職の慣習によってくじを引いたところ、ザカリヤは神殿に入って香をたくことになりました。すると、御使いが現れて言ったのです。「恐れることはありません。ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです」。しかし、ザカリヤは肝心の時になって、御使いのことばを信じることができなかったのです。ザカリヤはずっと何年も神に祈って来たのです。別な表現をするならば、ザカリヤは神にずっと、しゃべり続けて来たのです。〝子どもを与えてください。子どもを与えてください〟と、ずっと神に語って来たのです。祈って来たのです。

そして、ついに神がその祈りに答えて、「ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい」と言われて、御使いのことばを、聞いて、受け入れることができなかったんですね。彼は聞いて信じることができなかったのです。 ザカリヤは、神とのコミュニケーションという意味においては、ザカリヤから神への一方通行のものであって、神のことばを聞くことが出来ていなかったのです。

2.マリヤ

マリヤのもとに、御使いガブリエルが現れて、28節「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と言いました。マリヤは御使いのことばにひどくとまどったのですが、御使いは、マリヤ、あなたは聖霊によって身ごもるのだ。そして生まれる者は聖なる者、神の子なのだ。神にとって不可能なことは一つもないと告げました。そして、マリヤは御使いのことばを聞いて信じたのです。

聖霊によって身ごもるなんていうことは、人間的には、人間の理性を持ってしては、そんなに簡単には信じることのできないことです。しかし、マリヤは「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」(38節)と答えたのです。 コミュニケーションという観点から言うならば、彼女は語ることよりも聴くことの大切さを知っていた人だったのです。神はそのように神のことばを聴くことの出来たマリヤを、救い主の母として選ばれたのです。そしてそれは救い主の誕生に備えられたふさわしい女性であったのです。

3.またザカリヤに話を戻しますが、

ザカリヤは、御使いのことばを信じることができなかったので、20節「口がきけなくなり、話せなくなり」ました。ザカリヤが信じなかったことに対する罰と言いましょうか、処分の方法はいろいろあったと思うのですが、処分の方法として、ザカリヤの口がきけなくされたのには、神の深い愛と配慮があったのではないかと思うのです。それは、聴くことがいかに大切であるかをザカリヤが学ぶためであったと考えられます。そのために彼は話すことができなくされたのです。

神のことば、神からの語りかけを聴くことが、自分が何かをしゃべることに勝って、比べることができないほどに大切なことをサカリヤが悟るために、ものが言えないようにされたのではないでしょうか。そして、ザカリヤはそのことが良く分かったのです。彼は神に聴くことができて、御使いのことばを信じることができて、御使いの告げた通りに、生まれて来た子の名を、「その子の名はヨハネ」と書き板に記した時に、64節「ザカリヤの口は開かれ、舌は解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた」のです。

神に聴くことが大切なのです。ザカリヤだけではなく、全ての人にとって必要であり、なくてはならない唯一つのことは、神のことばを聴くことではないでしょうか。神のことばを聞いて信じる。そのことが、私たち人間にとって、何にもまして大切なことであると思います。

イエスが誕生されたとき、野宿で夜番しながら羊の群れを見守っていた羊飼いたちに、御使いは告げました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」。 聖書はイエス・キリストこそ私たちの救い主であると語っています。神のことばを聞いて信じる人は幸いです。神のことばを聞いて、聖書に記してある通りに、イエスは、私の「救い主」であると信じる人は幸いです。その人には、神の恵みのゆえに神との交流、神に聞き、神に語るという神とのコミュニケーションの道が開かれるからです。神とのコミュニケーションの道が開かれたならば、心は喜びと平安に満たされて、この世に生かされている意義を知ることができ、また、大切な身近な存在との人間関係にも恵みを注いでくださることでしょう。

神であるのにみどり子となって、この世に来てくださったクリスマスを間もなく迎えようとしています。そのお方、救い主イエス・キリストを心にお迎えする心の備えをいたしましょう。