聖書の語る福音とは

「聖書の語る福音とは」  ガラテヤ1:4         11月25日

今日は、ガラテヤ人への手紙を開きましたが、この1章に「福音」ということばが何回も出て来ます。そして2章以下にも「福音」ということばが何度も出て来ます。ですから、一言で言えば、パウロという人が書いたガラテヤ人への手紙は「聖書の語る福音とは何か」を語っているのです。

1.「今の悪の時代」とあります。

「今の」とありますが、この書卷が書かれたのは、AD53年と言われています。そして私たちは、21世紀の現代に生きています。特にここ数十年の世の中の変りようはとても大きなものですね。特に情報伝達の変化がそうです。今は、スマートフォンで電話、メールに及ばず、調べ物も買い物も、何でもできる時代になりました。本当に便利な時代になったものです。

しかし、便利で快適な生活を送れるようになって、人は幸せになったかというと必ずしもそうではないと思うのです。いえ、進んだ情報伝達手段によって、昔はなかったような犯罪の温床ともなっています。じゃあ昔は、罪や悪がなかったのかというとそうではなく、その時代も悪に満ちた悪しき世であったのです。

何を言いたいのかと言いますと、罪とか悪とかは、外側の状況によって生じるものではなく、人の心、人間の内側にある問題なのです。  時々、テレビで危険なので釣りを禁止している所で釣りをしている人々をレポ―タが直撃報道している様子が報じられることがあります。自分たちのしていることは良くないことであると知っていながら、彼らは皆一様にこう言うのです。“誰でも皆やっているではないか。他の人もやっているんだから構わないではないか。俺一人が悪い訳ではない”。このことばは裏を返して言うならば、皆、悪いことを行っていると認めているのです。しかし、不思議なもので、自分はそんなに悪い人間ではないと考えるのです。

しかし、聖書は次のように語っています。「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い・・」(エペソ2:1)。聖書は、私たちはこの世の流れ、罪と悪に満ちたこの世の流れに流されているのだと言っています。“皆やっているではないか、それくらいの悪は皆やっているではないか、だからなぜ悪いのだ”と、もし私たちが言うとしたならば、それは、私たちはこの世の流れに流されているのです。そしてそれは人として本来、与えられている大切なものを失ったからなのではないでしょうか。

2.しかし、悪の時代にあって、自らのいのちを犠牲にした人々がいるという事実。

毎年のことですが、この夏も海や川の水難事故でいのちを亡くした方が何人も出ました。中には溺れた人を助けようとして、助けようとした人が溺れて亡くなったというケースも何件かありました。助けようとして海や川に飛び込んだ人たちは、誰も自分が死のうとした訳では勿論ありません。溺れている人を何とか助けようとして、結果として自分のいのちを失うことになってしまったのです。心痛ましい事故ですね。

それとともに、今お話ししたこととは違う死に方をした人もいます。  三浦綾子さんの作品に『塩狩峠』という小説があります。もう40年ほど前でしょうか、映画にもなりました。北海道の塩狩峠で実際に起きた実話を元にしたお話しです。 主人公は鉄道員なのですが、その主人公の乗った列車のブレーキが途中で故障してしまったのです。何度も何度もブレーキをかけようと試みるのですが、ブレーキは故障したままなのです。列車は塩狩峠を過ぎて下り坂を走っていました。もう少し先にはかなりの急カーブがありまして、このままでは脱線して大きな事故になってしまうことが予想されました。その時、鉄道員である主人公・彼はクリスチャンであったのですが、ある決断をしました。彼の取った行動は自分の体を列車の下に投げ出して、列車の車輪を止めるということでした。列車は無事に止まりました。しかし、主人公である長野さんはいのちを失ったのです。彼は死を覚悟して、いえ、自らの死をもって列車の乗客のいのちを救ったのです。これは実際にあった出来事です。

そしてもう一つ、昔は北海道と青森県を青函連絡船で行き来していました。その青函連絡船である洞爺丸が台風で沈没したのです。多くの乗客が海に投げ出されて死にました。制限人数以上の人を乗せていたからでしょうか、救命衣(ライフジャケット)が皆に渡るほどはなかったのです。ある一人の人は死を覚悟しました。自分の着るライフジャケットがなかったからです。その時、一人の外国人が、“私は永遠のいのちを持っているので大丈夫だから、これをあなたに上げよう”と言って自分のライフジャケットを渡してくれたというのです。そして、その外国人はあっという間に海の中に沈んで行きました。ライフジャケットを渡された彼は助かったのです。その外国人は、宣教師で名前は、A・R・ストーンという方です。

長野さんも、ストーンさんもクリスチャンでした。なぜ彼らがそのような行為をしたのでしょうか。それはヨハネの福音書15:13「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」とありますが、彼らは愛のゆえに、自ら犠牲となる道を選んだのです。そしてそれは、先ほどストーン宣教師のことばとして触れましたが、彼らは神の救いに与り、永遠のいのちを持っていたからです。

3.誰が人に永遠のいのちをもたらしたのか。

永遠のいのちとは、神にまみえることのできるいのちです。神にまみえ、神と親しい交わりを保ち、そして神が共にいてくださるいのち、それが永遠のいのちです。4節「キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自身を与えてくださいました」とあります。イエス・キリストは神から離れている私たちすべての人間を救うために、私たちに永遠のいのちを与えるために、十字架にかかってご自分のいのちをお捨てになったのです。神のかたちに造られた私たち人間が、神を離れ自分で自分は何をしているのか分からなくなってしまって、なぜ俺だけ悪いのだ、皆やっているではないかと、うそぶくしかない自己中心の心に満ちた私たちの罪の身代わりとなられたのが、神の御子イエス・キリストの十字架の死なのです。

聖書の語っている「福音」とは、イエス・キリストの十字架は、私が自己中心で好き勝手に生きていた私の身代わりの死であったと受け入れるならば、そして、イエス・キリストは私の救い主であると信じるならば、罪を赦され、神の子どもとされることができる、失っていた神との交わりを回復することが赦される、そして永遠のいのち、神が共にいてくださる世界に生きることができる、という知らせなのです。

私たち人間ではどうすることもできない領域において、イエス・キリストのゆえに、私たちに救いをもたらす良き知らせなのです。罪のゆえに滅びを前にしている私たちに永遠のいのちをもたらすという知らせなのです。「あなたの罪は赦された」という救いほど、私たちにとって必要なことはないのではないでしょうか。そして、神が私を愛していてくださっている、神が私と共にいてくださるということほど、私たちに平安と喜びを与え、私たちの力となることはないのではないでしょうか。イエス・キリストを信じるならば、誰でも神の救いに与ることができます。神の救いをご自分のものとなさってください。心からお勧めいたします。