教会の品性

「教会の品性」 使徒13:1~3           11月18日

福音が世界各地に伝えられるための拠点となったのが、アンティオキア教会でしたが、そのアンティオキア教会はどのような品性に満ちた教会であったのでしょうか。

1.神の恵みが溢れた教会であった。11:23

「恵み」ということばは、日本社会にあって人々が日常的に使うことばではありません。しかし、日照りなどが長く続いて作物などに影響が出て来て困っている時に雨が降ると、お百姓さんは「恵みの雨だ」と言います。そのように「恵み」ということばは、人間ではどうすることもできない領域を表すことばなのです。

そして、聖書には度々、「恵み」ということばが登場して来ます。自然界を通して意識する「恵み」ではなく、自分という人間そのものに関わる「恵み」です。ですから、「恵み」ということばは、キリスト教信仰の中でも中心的な意味を持つ重要なことばなのです。

異邦人たちによって始められ、世界に福音が伝えられて行く拠点となったアンティオキア教会に関する最初の言及が、そこに派遣されたバルナバが「神の恵みを見て喜んだ」とある、神の恵みに溢れた教会であったのです。救いに与かったキリスト者ひとりひとりが神の恵みに満たされていること、神の恵みに生かされていることが最も大切なことなのです。

2.与える教会であった。11:28、29

世界中に大飢饉が起きた、とありますが、そのような飢饉の中で、アンティオキアのキリスト者はユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物資を送ったというのです。エルサレム教会が、自分たちの教会のためにバルナバを派遣してくれたことに対する感謝の気持ちもあったかもしれません。しかし、言えることは、アンティオキア教会は与えることを喜びとする教会であったのです。

人は神の恵みを知らないと、自己中心に生きていますので、与えるよりも受けることを求めて止まない存在ですね。心と魂に満たしがありませんので、渇いて渇いて、受けることを求めて止まないのです。

しかし、神の愛を知り、神の恵みに満たされると、心は喜びに満たされ、受けた恵みが心と魂に一杯になって溢れますので、自分が人から何かを受けることよりも、食べ物で困っているユダヤのキリスト者たちをお助けしたい、となったのでしょう。アンティオキアの教会は神の恵みに満たされた教会でしたので、与えることが喜びとなったのです。

3.うるわしい一致のある教会でした。13:1

神の救いに与かった者の集まりである教会は、その性質上、いろいろに違う者の集まりでもあります。ここに教会のリーダーとされた預言者と教師が登場して来ますが、「バルナバ」は、ある意味で財産家でした。「ニゲルと呼ばれるシメオン」とありますが、彼は黒人でした。「クレネ人ルキオ」クレネ人とは北アフリカの人であり、「領主ヘロデの乳兄弟マナエン」とありますが、これはヘロデ王と一緒に教育を受けて成長したことを表しています。ですから、マナエンは生まれと育ちは、当時の上流社会に属していたのです。そして、サウロです。

まあ何と、いろいろと背景の違う器たちが集められていたのだなあと思うのですが、いろいろな違いは、人間的には困難をもたらす原因となりかねません。困難どころではない、対立と分裂の要因となりかねません。 しかし、アンティオキア教会ではいろいろに違う預言者や教師が、一つとされて教会の建設にあたっていたことがわかります。

私たちはいろいろな違いに直面して、自分の物の見方や考え方はある一面であって、別な物の見方や考え方があることを知って、心が耕され、広くされて行くのです。他の誰かではなく、自ら自身の心が耕される時に、相手を受け入れる広い心を与えられ、品性が形造られて行くのです。そして、自ら自身が神に扱われる時に、お互いの間に神のうるわしさが現れて来るのす。

4、祈りの教会であった。13:2,3

断食とは、神に心を集中するために、食事を断つということです。神に心を向けることが許されているということは本当に感謝なことです。神に心を向けることが許されれば許されるほど、神の恵みの世界は広がるでしょうし、イエスの愛の広さ、深さに私たちの魂は満たされるのです。神に心を向けるという営み、神に祈るという特権と恵みに与かっていることに感謝を新たにさせていただきましょう。あるいは、神に心を集中するために、自分で時を定めて断食することも良いのかもしれません。

5.神の声を喜んで聞き、良きものをささげた教会でした。13:2、3

福音が語られてもすべての人がそれに応答するとは限りません。いえ、多くの人々は福音が語られても聞くことができないのです。聞くことをしないのです。 聖霊は私たち罪ある者の姿を明らかに示すことでしょうから、自分を見つめ直し、自らを顧み、そして悔い改めへと導くものです。自らを顧みる、自分自身と向き合うということはそんなに容易なことではありません。しかし、神の恵みによって自分自身と向き合うことの許される世界、そして、神の恵みのゆえに、内なるものが日々新たにされる世界はすばらしいものです。

そして、時には神の声は、痛みを伴うことを受け入れなければならないということもあることでしょう。ここでは、聖霊が語られて、その内容は「わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」というものでした。バルナバとサウロはアンティオキア教会の働き人の中でも中心的な存在でした。その中心的な二人の器を他の働きのために出すように、とのことですので、それは簡単なことではなかったのではないかと想像します。しかし、アンティオキア教会の人々は、神さまが「わたしのために」とおっしゃり、「わたしが召した働きに」二人を遣わすようにと語られて、その神の声に喜んで従ったのです。

クリスマスまで後、1ケ月余りとなりました。神の御子であるのに、人となって、赤子となって私たちの世界に来てくださいました。父なる神はご自身の独り子イエス・キリストを私たち人間の救いのために、私たちに与えてくださいました。神のなさったことは驚くばかりの恵みです。 そのお方に対して私たちが良きものをささげるのは、ある意味で当然のことではないでしょうか。

アンティオキアの教会の品性に心を留めて来ましたが、時代は変わっても、神が喜んでくださる教会の品性は同じであることでしょう。私たち一人一人も、そして私たちの教会もアンティオキア教会の品性にならう教会でありたいと願います。