幼子たちを祝福されたイエス

「子どもたちを祝福されたイエス」  ルカ18:15~17     11/4

 

今日の礼拝は「子ども祝福式」を行う礼拝となっています。

ユダヤ人たちは子どもが与えられると、親は最初の誕生日を迎える時に、ラビ(ユダヤ教の教師)のもとに連れて行って、祝福を祈ってもらったのです。15節に登場する人々もそのような同じ思いをもって、自分の幼子をイエスにさわっていただこう、イエスさまに祝福していただこうと願ってやって来たのです。ところが、イエスの弟子たちがそれを見て叱ったのですが、弟子たちの心は少なくとも、3つの点で、イエスの心とかけ離れたものであったのです。

1.まず、「祝福」の理解です。

アメリカのプロゴルファーにジョーダン・スピースという人がいます。彼は少年時代に、親に連れられて行ったゴルフ場で、有名なフィル・ミケルソンに不思議な縁で声をかけられたのです。ミケルソンの打ったボールがグリーンサイドの観客席にいたジョーダン・スピースの目の前に飛んで来たのです。選手が打ちやすいように場所を開けなければいけません。しかし、ミケルソンは座ったままのまだ幼い少年ジョーダン・スピースにこう言ったのです。〝そこで動かないでじっとしていることができるなら、君はそこにいていいよ〟。スピースはうなずきました。ミケルソンはみごとなリカバリーをして、そのホールはパーで終わりました。そして、この出来事が、ジョーダン・スピースの人生を決定付けることとなったのです。子どもであったとしても一人の人格ある者としてミケルソンは自分に接してくれた。それ以来、ミケルソンは彼の英雄となり、同じ道を進む決心をし、今、プロゴルファーとして活躍しているのです。

まして、神の御子であるイエスに触れていただくことができたなら、その子の将来にとってそれはいかばかりに大きな出来事であるか・・・。 しかし、弟子たちは、「祝福」の意味するところの本当の意味・それのもたらす世界を必ずしも正しく理解していなかったようです。ですから、幼子たちを祝福してほしいとやって来た人々を受け入れることができなかったのです。イエスは「子どもたちを、わたしのところに来させなさい」と言われましたげ、弟子たちの心はイエスの心と違っていたのです。

2.弟子たちの理解の間違っていた2つ目のこと。

これは、最初の指摘した「祝福」と、関連のあることですが、弟子たちの思い、弟子たちの判断は人間的なものであったということです。 イエスさまはこれからエルサレムに行って、しかもそこで苦しみが待っていると言われる、いや、そこで殺されることになるとおっしゃった。そして、三日後によみがえるともおっしゃった、しかし、それはどういうことなのだろう。弟子たちは多分、どう理解してよいかわからず、頭と心は混乱していたものと思われます。彼らのできること、考え得ることは、今、この時、イエスをわずらわせるようなことからイエスをお守りしたい、そのような思いであったのだろう・・・などと想像をいたします。

弟子たちはイエスのことを考えていたのです。しかし、それは天を思う、天の父の神の思いを思うものではなかったのです。弟子たちの考え、弟子たちの思い、弟子たちの判断は、この地上の人間的な思いであり、人間的な判断であったのです。

3.大人である自分たちは知恵ある者と考え、それゆえに子どもを軽んじていたという点です。

イエスは、「まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」(17節)と言われました。 あなたがたは、自分たちは大人で知識も知恵もあると考えているかもしれないが、そのままでは神の国に入れないのだよ、とおっしゃったのです。

私たちは赤子としてこの世に誕生を許され、そして、親の保護の元に成長することを許され、少年となり青年となり、そして大人となります。子どもはいつまでも子どもであって良いわけではありません。成長して大人となっていかなければなりません。自分で物事を考え、自分で判断し、責任を自らとる自立した者と成長して行かなければなりません。また、社会の中にあっていろいろな人間関係の中で生きて行く常識や良識、そして知恵も必要となって来ることでしょう。それらを身に着けることは大切なことです。 しかし、神の国とこの地上の世界は、ある意味で全く別な世界でもあるのです。

神の国に入るには、この地上の原理、人間的な判断、人間的な価値観では入ることができないのです。いくら社会人としての常識や良識やあるいは教養があったとしても、そして知恵があったとしても神の国には入れないのです。

「子どものように神の国を受け入れる」とはどのようなことなのでしょうか。

子どもは、自分は何でも知っている、最終的に頼ることができるのは自分自身であるとは誰も思っていません。特に幼子であればあるほどそうでしょう。どこまでも頼ることができるのは親であり、自分の存在は親なしには、親の愛なしには存在し得ないことを本能的に知っています。親を全面的に信頼しています。親の話すことばに全面的に信頼を寄せています。子どもの心と生活は信頼の上に成り立っているのです。

神の国に入ることも同じです。子どものように神の語られることに全く信頼を置くならば、誰でも神の国に入ることができるのです。

しかし、大人である者は、自分で考え、自分で判断する責任もあります。ですから、聖書の語っていることは本当のことなのか、全面的に信頼するに足るのかどうかをよくよく考えて判断する必要が生じて来ることでしょう。

使徒の働き17章にベレアの人々に関してこう記されています。「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」(11節)。パウロが語っていることが本当にそのとおりかどうかを、毎日聖書を調べた、というのです。皆さんも、ここで語られていることが本当にそのとおりかどうかを自分自身で聖書を調べてください。そして、わからないことや疑問があったら何でもおっしゃってください。何も考えず、何も調べず、ただ何でも信じるなどというのは勿論間違っています。しかし、聖書の語っていることが本当に信頼に足るものである。この不思議な世界は神が創造されなくして存在し得ない。いえ、私たちの心に良心が与えられていることを見ても、聖書が語っているように、私たちは神に似せて造られている。そして、聖書の示しているイエス・キリストは真に神の御子であり、今から2千年前に十字架にかかられたことが歴史上の事実であることを認め、そして、イエスは人類すべての人の罪のために十字架におかかりになった。そのすべての人類の内の一人に、正にこの自分も含まれている。イエスはこの私のためにこそ十字架にかかってくださったと思われるなら、素直に信じなさることです。子どものように素直に受け入れることです。神のお造りになった世界で、神に信頼をおいて生きる以上にすばらしい人生はありません。

私たちの身近に幼子や子どもを与えてくださっているのは、私たちにも素直な純真な心を与えて、神の国に入るために神が備えてくださっているのです。 私たち一人ひとりに、そして、幼子と子どもたちの上に神の祝福がありますように心からお祈りいたします。