神の国に入るのは

「神の国に入るには」  ヨハネ3:1~15        10月28日

 

イエスは時々、不思議なことをおっしゃいました。私たちにとって不可解なと言いましょうか、理解しかねることをしばしば語られたのです。今日の箇所ですと、3節「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」がそうですね。「新しく生まれる」ということばは私たちにとっては不可解なことばです。ンンン・・一体、この方は何を言っていのだろう・・。

しかし、イエスの語られることが私たちに不可解であり理解しがたいことであるのは、ある意味では当然のことであると言えます。イエスは神の御子であり、神の視点で物事をご覧になっておられる方であるからです。一方、私たちはこの地上にいのちを与えられた人間であり、神の視点で見ることはできないからです。

1.まず誰に話されたことばなのか。

ニコデモという人物ついていくつかのことが分かります。◇パリサイ人:ユダヤ人の中で、旧約聖書の律法の書である、モーセの五書を神聖なものとして、特に律法を守ることに熱心であった人々の集団です。しかも2節を見ますと、彼は、イエスは神がともにおられるお方であると、尊敬の念をもってイエスの元に来たのです。ですから真実な求めを持っていたのです。◇ユダヤ人の議員:これは、ニコデモという人が、サンへドリンという70人から成るユダヤ人議会の議員であったことを示しています。高い地位にありました。◇4節「老いていながら」:ここでは肉体的に老人になっているとニコデモは自分のことを言っているのですが、別な見方をするならば、長い人生経験を送って来た訳ですから、人生の様々な知識も知恵をも身につけていたことでしょう。◇それから、これは後の箇所で分かることですが、彼は裕福であったと考えられます。 ですから、ニコデモという人は社会的に尊敬される立場にあり、分別と弁えをも持っていたでしょうし、経済的にも恵まれた人であったのです。人間的にはこれ以上、何が必要であろうかと思えるほど恵まれた立派な人であったのです。

2.イエスはそのようなニコデモに対して、「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われたのです。 このイエスのことばは何を意味しているのでしょうか。

◇聖書は真理が何かを私たちに分かるように、対比ということに心を用いて記されています。この箇所ですと、ニコデモのような人間的には優れた人であったとしても、そのままでは神の国を見ることはできない、という方法を用いています。このことは逆に言えば、人間的にはどうしようもない人であったとしても、新しく生まれるならば、神の国を見ることができるということでもあります。

◇しかし、ニコデモは「新しく生まれる」ということばの意味が理解できませんでした。(ギ)で“アノーセン”ということばが使われていますが、このことばは2つの意味があります。①上から:つまり神から。②第二回目という意味での「もう一度」。

イエスが語られた「新しく生まれる」とは、「上から」という意味、つまり「神から」という意味で、このことばを用いられたのです。しかし、ニコデモはイエスの語られた「新しく生まれる」ということばの意味を、第二回目という意味での「もう一度」としか理解することができなかったのです。

◇聖書が示している、いのちには二つあります。聖書は二つのいのちがあることを語っています。私たちの肉体のいのちと、永遠のいのちです。ですから、いのちの誕生にも二つあるのです。私たちはそれぞれ、肉体の誕生をし、肉体のいのちを与えられています。それはある意味で、自分で意識したり、自分で望んで得たものではありません。私たちは自分の存在を意識し始めた時に、すでにこの世に両親の元で誕生し、いのちを持つ者とされていたのです。しかし、聖書は自分の意志と自覚と責任の元に、もう一つのいのち、15節「永遠のいのち」があることを語っています。ですからそれは肉体的ないのちではありません。その人の意志と自覚と責任のもとになされる内的ないのちです。

神は私たちがどのような所で生まれ、どのような環境の下で育ったかの責任を問われるお方ではありません。性格が社交的か内向的か、積極的か消極的かを問われるお方ではありません。しかし、一人の人格ある者として、ここでイエスがおっしゃった「新しく生まれる」という選択をしたか否かを問われるお方なのです。

先ほど見ましたが、「新しく生まれる」ということは、上から生まれることであり、神から生まれることであるという霊的な誕生であるからです。イエスは「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました。 ことばを変えて言うならば、“人は、新しく生まれるならば、神の国を見ることができる”と、イエスは語られたのです。新しく生まれたならば、誰でも神の国を見ることができる。神の国に入ることができるのです。

3.それでは、どのようにして、新しく生まれる・霊的ないのちの誕生が出来るのか。

それは、イエスによってもたらされたのです。もう少し正確に言いますと、イエスの十字架の死によってもたらされたのです。宗教と呼ばれるものには、いろいろとあります。仏教、イスラム教、ヒンズー教、日本では神道・・・。そしてそれぞれの創始者がいて、それぞれの教えがあります。しかし、死によって救いがもたらされたとするものは、キリスト教だけです。他の宗教の中心はその教えにあるのだと思います。しかし、聖書の語っている中心は、イエス・キリストの十字架の死にあります。救い主イエス・キリストの十字架の死によって、すべての人に救いがもたらされたのだと、聖書は語っています。

イエスは私たちが神から離れて自己中心に生きていたという罪の身代わりとなるために十字架にかかって、罪の処罰を受けてくださったのです。15節に「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」とあるように、イエスは私の罪のために十字架にかかって死んでくださったと信じるならば、永遠のいのちの誕生になるのです。「新しく生まれる」ことができるのです。 ですから、生まれがどうであろうと、性格がどうであろうと、いえ、過去に犯した罪がどうであろうと、イエス・キリストの十字架の死は私の罪の身代わりであったと信じるならば、罪を赦され、「新しく生まれる」という上から・神から生まれた者とされるのです。

イエス・キリストの十字架による贖いはもう2千年前にすでに成し遂げられ、完成していますので、神が私たちに求めておられることは、今、イエス・キリストを信じるということです。私たちがイエス・キリストを信じるならば、誰でも「新しく生まれる」ことができるのです。神の国を見、神の国に入ることができるのです。