人の狭い心と神の広い愛

「人の狭い心と神の広い愛」 使徒の働き11:1~18  10月14日

 

今日の箇所で、人間にとっての普遍的なテーマ・課題が取り扱われています。それは私たち人間の心の狭さ、それゆえの「偏見」という課題です。

ユダヤ人にとって、異邦人に対する偏見は、ちょっとやそっとでは除くことができない大きな課題であったのです。

 

1.偏見ということを少し考えたい

ユダヤ人は神の栄光を現わすために選ばれた民です。ところが、ユダヤの民は選民意識を履き違えてしまいまして、何か自分たちは特別な民族で、ユダヤ人以外を異邦人として差別意識を持ってしまったのです。

「ご存じのとおり、ユダヤ人には、外国人と交わったり、外国人を訪問したりすることは許されていません」(10:28)とありますが、ユダ人が異邦人を訪問したり、交流することは禁じられていたのです。そして、食事は親しい交わりを表していますので、非難されるべき事柄であったのです。

神の栄光を現わすべく選ばれた民であるユダヤ人たちの中で、神の救いに与かった人たちも、偏見から自由にされることは容易ではなかったのです。

しかし、神はそのようなユダヤ人たちの偏見を、忍耐をもって取り除いてくださったのです。ユダヤ人たちの狭い心に対して、神の広い愛をもって忍耐の限りを尽くして取り除いてくださったのです。

それは、イエス・キリストの十字架の死はユダヤ人の救いのためだけではなく、すべての人の救いのためであるからです。それゆえに、聖書の舞台から見るならば、地の果てとも言える極東の私たち日本にまで福音が及んだのです。私たちが救いに与かったという事実、それは何にもまして、神は偏見のない方であり、神の限りなく広く大きな愛の現われでもあるのです。

 

2.ペテロの答弁

ペテロもユダヤ人として異邦人に対する偏見の中にありました。

しかし、ペテロは不思議な幻を見、神からの語りかけを受けて、心が変えられて行ったのです。ここでは、ペテロの答弁に注目をすることにします。ペテロは、自分に非難を向けたユダヤ人たちに対して、何も議論をしませんでした。間違った選民意識に捕らわれてしまっていますので、議論すればするほど話が余計こじれてしまうからです。

ペテロは自分自身のことを含めてそのことが良く分かったのでしょう。そして、神に導かれてなのですが、ペテロは自分に避難を向けたユダヤ人に対してしたことは、4節「事の次第を順序立てて説明した」のです。事実をそのまま話したのです。

そして、ペテロはユダヤ人たちも知っていたであろう当時の一般的に知れ渡っている法律的な根拠を弁えた上で、賢く行動しているようにも見えます。

12節「そして御霊は私に、ためらわずにその人たちと一緒に行くように言われました。そこで、ここにいる六人の兄弟たちも同行して、私たちはその人の家に入りました」。ですから、ペテロを合わせて七人になります。

時はローマ帝国時代ですが、ローマの法律には、次のようなものがありました。「遺言状のように、本当に大切な証言であると認証されたものには、七人の署名が必要である」。

そして、ローマの法律以上に、ユダヤ人にとっては七という数字は特別な意味を持っていました。ユダヤ人にとって七は完全数とされ、完成とか成就を意味しました。ペテロは神に導かれてなのでしょうが、このコルネリウスに起きた出来事、異邦人も救いに与かるという出来事は、重要な出来事、いえ、福音の働きにとっていかに重要な出来事であるかを知らせるために、七人で出かけて行ったのだと思われます。

 

3.聖霊を受けた(ペンテコステの恵み)

15節「そこで、私が話し始めると、聖霊が初めに私たちの上に下ったのと同じように、彼らの上に下ったのです」。

ペテロは、異邦人たちとともに食事をしたと非難を向けたユダヤ人たちに対して、その異邦人たちにも聖霊が下ったこと、神は人を偏り見ることのないお方であること、いえ、神はすべての人が救いに与かり聖霊に満たされることを願っておられるお方であることを語ったのです。

18節「人々はこれを聞いて沈黙した」とあり、神をほめたたえていますが、

人々は自分たちが何と心の狭い者であり、自分たちを縛りつけていた偏見をも取り除いてくださろうとしている神の愛と神の忍耐は何と大きく広いものであるかに心を打たれたのです。

私たちも自分では気付いていない狭い心と偏見を持っているお互いであるかも知れません。しかし、神はそのような私たちにも広く限りない愛をもって、私たちが神の愛で満たされるように、神の恵みで満たされるように、そして、聖霊に満たされるようにと願っておられます。その神の深く広い愛に感謝をささげましょう。