コルネリウスの場合は

「コルネリウスの場合は」 使徒の働き10:1~8    10月7日

 

罪人である私たち人間になされる救いのみわざは、神学的には救済論と言って普遍的なものなのですが、実際には一人一人、その人ならではの道のりを通って救いに導かれていますので、非常に興味深いことでもあります。

今日は、救いに与かったコルネリウスの経緯です。

 

1.コルネリウスという人

イタリア隊という部隊の百人隊長。ですから、ユダヤ人ではなくローマ人であり、異邦人です。彼は敬虔な人でした。そしてコルネリウスは自分だけではなく「家族全員とともに神を恐れ」とあります。先月、桜ケ丘教会の林誠子姉が証してくださって、「子どもを良い子に育てるためには、まず自らが良い人になることが大切である」と証しされましたが、コルネリウスは正にそうであったのです。そして、7節を見ますと、彼の側近の部下の一人も神を畏れる敬虔な兵士であったようです。

そればかりではなく、「民に多くの施しをし」とありますが、征服されている側の民であるユダヤの民に多くの施しをしていたのです。4節を見ますと「あなたの祈りと施しは神の御前に上って、覚えられています」とあります。コルネリ

ウスはそのような人物でした。

 

2.神の御使い(御使いと人間の関係)

聖書にしばしば、神の御使いが登場して来ますが、御使いの働きの分野があります。それは、御使いが人に救いの道を教えることはないのです。御使いは救いの道を示す人を教えました。5節「ペテロと呼ばれているシモンという人を招きなさい」。神は御使いに大切な任務を与えておられますが、人に救いの道を示すのは、救いに与かった人間を通してなのです。

罪人に過ぎない者が、しかし神の測り知れない恵みによって救いに与かるならば、神はそのような私たち人間を通して、他の人に救いの道を示すことを得させなさるのです。勿論、救いのみわざは聖霊なる神のなさることです。十字架にかかられたイエスを指し示す聖霊によって、私たちは自分が神から離れていた罪人であることが示され、そして、イエス・キリストの十字架の死は正にこの私のためであったと信じる人は救いに与かることができます。

そのように、人に救いの道を示すのは、救いに与かった人間、救いに与かった私たちなのです。

3.ペテロ

ペテロはユダヤ人という選民意識が強い一人でした。

当時のユダヤ人で救いに与かった者たちは、ユダヤ人には福音を語る必要を覚えていましたが、異邦人にまで福音を伝えることは考えもしなかったのです。

イエスが、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」と言われましたが、「地の果て」とある異邦人社会に福音を伝えに行こうと中々しなかったのです。自分たちの殻を抜け出せなかったのです。

ペテロもそうでした。ペテロも異邦人社会に積極的に福音を伝える気持ちは持っていなかったのです。

ですから、神はコルネリウスを救いに与からせるために、ペテロに幻を見せ為さるのです。直接的に、異邦人のことをペテロに告げると拒否反応のようなもので心を閉ざしてしまう恐れがあったからでしょうから、食べ物のことでペテロの心を和らげ、ペテロが理解することを願われたようです。15節「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」。これは、神が選民だの異邦人だのという隔てを取り除かれたことを示しています。

ペテロはカイサリアに向かい、33節のコルネリウスのことばを聞いて、やっとペテロはわかったのです。「これで私は、はっきりと分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます」。

 

最後に、コルネリウスに話を戻します。

コルネリウスは敬虔な人で神を恐れ、ユダヤの民に施しをなし、いつも神に祈りをささげていた人です。しかし、まだ、神の救いを知らなかったのです。罪赦され神の子どもとされたという体験をしていなかったのです。

神の救いに与かったか、与かっていないかは大きな違いなのです。とても大きな違いなのです。その違いがどのようなものであるか、たとえで言うことを許されるならば、大学入学試験の合格発表のようなものです。合格発表の掲示板に自分の受験番号があるかないか、決定的な違いですね。

そして、天に名前が記されているか、いないかは、希望する大学に入れなくて残念だったという次元のことではなく、永遠を決定する事柄なのです。

今、救いに与かっているかいないかの違いを理解していただくために、合格発表ということを例にとりましたが、本質的なことは、神の救いは人格的な交わり、人格的な交流にあるということです。

コルネリウスが神を畏れ、神に祈りをしていた。それをベクトルで表すならば、人から神に向けられたものと言えます。それだけで終わってしまうならば、一方的なベクトルで終わってしまいます。

しかし、「あなたの罪は赦された」という神の救いに与かることは、神から人に向けられたベクトルと言えます。

 

そして、本当のところ、神から人に向けられたベクトルが最初にあったのです。ヨハネの手紙第一4:19「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」とありますが、神がご自身の独り子イエス・キリストを十字架におかけになったほどに、私たちを愛してくださった、愛してくださっているというのが始まりなのです。神からの愛のベクトルは昔から今に至るまで、ずっと私たちに注がれているのです。

コルネリウスは神の救いに与かって、初めてベクトルが交わるという神との親しい交流を体験することとなりました。44節には「聖霊が下った」とあり、46節を見ますと、神を賛美しています。

 

47節、ペテロは「私たちと同じように聖霊を受けたのですから」と言いました。あのペンテコステの時に、弟子たちが聖霊に満たされて、彼らは真に変えられて、イエス・キリストの十字架の死と復活を大胆に宣べ伝えて教会のスタートとなった聖霊降臨です。

ペテロはこの異邦人であるコルネリウスも、自分たちを同じ聖霊を受けたのだと証ししました。それは神が私たちすべての人に、日本に住む私たちにも神が望んでおられることであるからです。

神は私たち一人一人と人格的な交わりを持ちたい、親しい人格的な交流をしたい、そして、私たちに聖霊を与え、聖霊に満たして、それぞれに与えてくださっている人生を喜びと感謝を持って生きるように、神は今も私たちに愛を注いでくださっています。そのお方に心からの感謝をささげましょう。