不思議なことをなさる神

「不思議なことをなさる神」 使徒8:1~8        7月8日

 神のなさることは人間の目には不思議としか見えないことをしばしばなさるお方です。
「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり」(1節)とありますが、「その日とは、」ステパノがユダヤの人々に向かって彼らの罪を指摘した日です。罪を指摘されたユダヤの人々の怒りはステパノを殺すに留まらず、エルサレム教会に対する激しい迫害となったのです。
神は全能なる神です。神は今も生きておられて、歴史を支配しておられる全能なる神です。その神が、なぜこのような迫害を許されたのでしょうか。

 イエスは「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」と言われました。
しかし、弟子たちは、エルサレム以外の地に、進んで福音を伝えに行こうとしなかったのです。ユダヤ人たちは、自分たちは神の選びの民であるとの選民意識のゆえに異邦人に対する差別意識が強くあったのです。また、ユダヤ人の歴史は、異邦人たちによって苦しめられて来た歴史でもありますので、なおさらです。イエスが語られても、それを乗り越えるのは容易ではなかったのです。
 そのような中で、エルサレム教会に対する激しい迫害が起きたのです。
それで「使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた」のです。
そして、4節「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた」のです。5節「ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた」のです。
そして、使徒たち(12使徒)と、その他の弟子たちが分けられたことにも神の深い配慮があったのだと考えられます。
迫害によって散らされた弟子たちは、それまで何かあると使徒たちに頼っていたことでしょう。不確かなことや理解していないことなどがあった時に、直ぐに使徒たちに助けを求めたと思うのです。ですから、弟子たちの多くは、使徒たちにおんぶに抱っこで、自分たちはお客さんのような気持であったかもしれません。
しかし、使徒たちと離されてそうは行かなくなりました。福音を語る責任が自分たちにかかって来たのです。不確かなことやいいかげんなことをもって話すことができなくなったのです。
 聖書を調べ、イエスの語られたこと、使徒たちの教えたことを思い起こしながら、自分自身の信仰が試され、養われたのではないでしょうか。
 散らされた人たちが、みことばの福音を伝えながら巡り歩いたのは、誰の強制によるものでもありません。彼らがみことばを宣べ伝えないではおれなかったからです。宣べ伝えないではおれない事柄に関して、その意味するところの重大性を認識していればいるほど、彼らの聖書に対する姿勢、イエス・キリストに対する姿勢、信仰に対する姿勢は、神によって整えられ、扱われ、そして、恵みで満たされて行ったのではないでしょうか。

 そして、その結果、8節に「その町には、大きな喜びがあった」とありますが、
サマリアの地に不思議なみわざがなされたのです。そして、サマリアの地にピリポが大きな喜びをもたらしたのは、ピリポ自身が大きな喜びに満たされていたからです。ピリポは神の計り知れない喜びに満たされていたのです。迫害を受け、辛く悲しい思いになったこともあったでしょうが、使徒たちと離されて、信仰が今まで以上に自分自身のものとなる中で、神のなさる不思議な世界に新たに目が開かれたことでしょう。
 神は不思議なことをなさるお方です。教会に対する激しい迫害という方法をもって、ピリポを始め、弟子たちの信仰を強め、自立した信仰者としました。
神は私たち一人一人が神を頼りとして、神からの語りかけに耳を傾け、神に心を向けて祈る営みにおいて、自立した者となるように願っておられます。
そして、神は迫害という方法を通して、それまで超えることのできなかった偏見をも乗り越えさせてくださいました。
 同じように、一見、マイナスと思えること、なぜと思える事柄を通して、私たちが自分でも無意識の内にもっている偏よった考えから解放されるように、そして、困難を覚えて尻込みをせざるを得なかった人間関係にも、忍耐と喜びをもって、それに直面する力と恵みを与えてくださるお方です。

 ピリポが神の恵みによって喜びに満ちていたから、そのピリポの伝えた福音によって、サマリアの町に大きな喜びが起こり、そして、その喜びが町に継続してあったのです。一人の救いに与かった人が、いろいろな困難や試練を辿る中で、神への信頼が深められ、神の恵みに満たされるならば、その恵みと喜びは、周囲の人々に、そして、その人の住む町全体にまで及ぶのです。
 まず私たち自身の内に、そして、私たちの身の周りの方々にも、そして、この町にも大きな喜びが起こされることを祈り求めましょう。