信仰は聞くことから始まる

「信仰は聞くことから始まる」  ローマ10:9~17     6/17

 

赤ちゃんが誕生して、1、2年くらい経つとことばを話すようになります。

不思議なもので、まだ何もしゃべれない赤ちゃんであっても、両親が、“君は世界一かわいいよ、生まれて来てくれてありがとう”と、語りかけていると、赤ちゃんはそのことばを覚えるのです。いえ、ことばだけではなく、母の愛、父の愛を受けて育つのです。

赤ちゃんに必要なただ一つのことは、親の愛のことばです。

それでは、赤ちゃんのすべきことは何でしょうか。赤ちゃんは親のことばに耳を傾けているのです。神はそのように人間を造られたのです。聞いて、ことばを覚え、愛を感じ、人間として成長して行くように神は私たちをかたち造ってくださったのです。神のかたちに造られた人間の本質的なあり方は、「聞く」ということにあるのです。

 

1.信仰の世界も同じです。

17節「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです」とあります。

神が最初に造られた人であるアダムが、神に背いて神から離れてしまったものですから、アダムの子孫である私たちは皆、神を知らないでこの地上に生まれて来る者となりました。人生の意義はいったい何なのか。本当に信じて間違いのない真理は何なのか。本当に頼ることのできるお方は誰なのか、何を信じて生きるべきなのか。私たちはそれを知らないでこの地上に生を受けたのです。

ですから、自分の人生の意義を知りたい、本当に信じて間違いのないことは何なのか、本当に神という存在があるのか、あるのなら、その神を知りたいと願われるならば、聞くことです。聖書は神のことばですので、聖書をお読みになることです。

聖書は人の心を写す鏡ですので、聖書をお読みになると自分の醜い姿がよく分かるようになります。そして、そのような私たちを愛して止まないイエスの愛を知ることができます。赤ちゃんが、親のことばに耳を澄ませるように、聖書を通して語っておられるイエス・キリストのことばを聞くことから、神を知らないで生まれて来た私たちにとって、神を信じるという信仰の世界は開かれてくるのです。

 

2.「救い」とは。

今日の箇所に「救われる」ということば、3回(9,10,13節)出て来ます。

なぜ、私たちは聞くべき最も大切なことが、「キリストについてのことば」なのか、それは聖書の語っている「救い」と関係があるからです。

聖書の示す人間観、人間のいのちは、この地上の生涯が終わったら、何もなくなってしまうのではなく、神の裁きの時に、私たちはよみがえると告げています。そして、この地上にいのちを与えられていた時に、イエス・キリストを信じて罪を赦されて救いにあずかった者は、神とともに永遠を過ごすことが許され、救いに与ることを拒んだ者は、神と関わりのない世界に置かれると聖書は語っています。

そして、現実に今を生きる者として、神の救いにあずかるならば、自分の人生を本当の意味で自分らしく、自分にふさわしく、そして神の愛に生きることができるのです。

その神の救いにあずかって、尊い、ただ一度限りのこの地上の生涯を喜びをもって感謝をもって歩むことができる、それが聖書の語っている「救い」です。永遠のことは勿論のことですが、それだけではなく、何よりも生きている今に関わる救いなのです。

 

3.どのようにしたら救いにあずかることができるのか。

10節「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とあります。

聖書の示している「救い」は信じることによってそれを受けることができます。

聖書が語っていることは、人間はみな神から離れた罪人で、その罪人である私たちのために、イエス・キリストが身代わりとなって十字架にかかってその刑罰を受けられた、

ということです。ですから、イエス・キリストの十字架の死は私のためであったと信じるならば、その救いが信じた人のものとなるのです。

オズワルド・チャンバースという人罪に関して次のように言っています。

“私たちは自分自身の罪をどうすることもできない。自分の罪に触れることさえできない。罪とは道徳的云々という次元のことではなく、真理からそれていることである”。

私たちは神から離れた存在として生まれて来ましたので、自分の罪を自分で解決することはできないのです。誰もできないのです。良い行いとか、人に好かれる性格とか、人より優れた人格とか、いえ、何をもってしても自分の罪を自分で解決できる人はひとりもいないのです。真理から反れてしまっているのですから・・・。

もし、人間の何かによって解決が与えられる性質のものであったならば、何も、神の御子が人となって来られる必要はなかったのです。神の御子が十字架にかかられる必要は全くなかったのです。しかし、今から2000年程前になりますが、イエス・キリストが十字架にかかられた、それが歴史の事実であり真実なのです。

人間の罪に対して、神の御子であるイエス・キリストのみが、解決を与えることができるのです。神の御子イエス・キリストが十字架にかかることなくして、その解決はなかったのです。

ですから、イエス・キリストが十字架にかかられたことはこの私のためでもあったというイエスと自分の関係がわかって、それを、信じることが出来たならば、その信じた時点で、神はその方の罪を赦してくださいます。それが「義と認められる」ということです。

 

そして、心にイエス・キリストを信じなさった方は、それを口で告白なさることをお勧めします。口に出す、ことばに出すということは、とても大切なことです。というより、とても重要なことなのです。

たとえば、結婚においては、だいたいは男性の側が多いと思いますが(あるいはその反対のケースもあるでしょうが)、プロポーズをして、相手と結婚したいという意志表示をして初めて実際に話しが先に進む訳です。心に思っていても、ことばで言い表さないと話しは先に進まないのです。ことばに出して初めて有効になるのです。

大切な事柄であればあるほど、ことばで言い表すことが大切なのです。

自分の人格をもって、ことばで言い表す。神を信じることにおいても、それはとても大切で重要なことであることはおわかりになると思います。

 

先ほど、聞くということの重要さを話しました。人間は神のかたちに造られた者として本質的なあり方は「聞く」ことにあるとお話ししました。それとともに、神のかたちに造られた人間の本質的なあり方は、自分の口で言い表すことにもあります。

神が語りかけてくださって、それに応答する。それが神のかたちに造られた人間の本来のあるべき姿であるからです。

10節「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」

どうぞ、そのことをご自身で体験なさってください。先にそのことを体験し、救いにあずかった者として心からお勧めいたします。