良い牧者なるイエス

「良い牧者なるイエス」   ヨハネ10:1~18        6月3日

 

聖書は人と神を何かにたとえるという方法を取っています。

今日の箇所では、人を羊にたとえ、神様を羊飼いにたとえています。

11節,14節に「わたしは良い牧者です」とありますが、「わたしは」とあるのは、

イエスです。イエスがご自分のことを「良い牧者です」とおっしゃったのですが、なぜ、

イエスは良い牧者であるのか、そのことを学ばせていただきながら、共に神の恵みに与りたいと願っています。

 

1.良い牧者は私たちひとりひとりを良くご存じである、ということです。

3節「牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します」とありますが、羊飼いは自分の羊をよく知っているので、その名を呼んで連れ出すというのです。

あのダビデも少年の頃には父エッサイの羊を飼っていました。毎日、羊を相手に生活をしていたのです。兄や家族たちの顔を見る以上に、ダビデは羊たちの顔を見て過ごしたのかも知れません。羊といっても顔つきや性格は皆違いますし、またその日その日の状態も違ったことでしょう。“今日はこの羊はいつものようには元気がないなあ、少し体の調子がよくないのかも知れない”。そのような時には特に気を配ったことでしょう。ですから、ダビデはどんなに羊が多くいても見分けができました。そして、羊飼いたちは羊に名前を着けることは普通のことであったようです。

そのように、羊飼いが羊の一匹、一匹の違いを把握して名前を着けるように、いやそれ以上に、イエスは私たちひとりひとりを良く知っておられるのです。そして、名前を呼んで導いてくださるというのです。

イエス様は私たちひとりひとりのことを良くご存じです。どのような過去と心の傷があり、今、どのような悩みに直面しているか、どのような弱さと課題を持っているか、あるいは何を喜びとしているか、何を心の願いとしているか、イエスは良くご存じです。

そして私たちひとりひとりの過去だけではなく私たちの将来に対するご計画を持って、私たちを招いてくださるのです。

 

そして、それだけではありません。

3節「羊たちはその声を聞き分けます」とあり、4節「羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです」とあり、14節「わたしのものは、わたしを知っています」とあります。イエスが私たちを一方的に知っておられるだけではなく、私たちもこのお方を知ることができる、と言うのです。私たちもイエスの声を聞き分けることができ、イエスを知っているというのです。親しい交わりです。

羊飼いは、毎朝、囲い場に行って、羊に声をかけて連れ出します。そして牧草地に導いて食物を与え、水飲み場に導いて水を飲ませてくれるのです。道を導く時も、絶えず羊飼いは声を掛け続けるのです。ですから、毎日、毎朝、いえ、何時でもイエスの声に耳を澄ませていると、聞き分けることができるのです。

イザヤ書「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、私が弟子として聞くようにされる」(50:4)とあります。

イエスの考えておられること、イエスの喜び、イエスの悲しみ、イエスが私たちに願っておられること、そして何よりも、イエスがどんなに私たちを愛してくださっているかが分かるのです。イエスは良い牧者であるお方なので、私たちはイエスに知られていて、そして私たちもまたイエスをよく知ることができるのです。

 

2.「良い」ということばについて

ギリシヤ語では、「カロス」ということばが使われています。それは単に道徳的に優れているとか、善良な市民という意味の「良い」というものではありません。そのような場合には「アガソス」ということばを使います。

「カロス」ということばは、「良い」という意味よりも「美しい」という意味を持つことばです。しかし、美しいと訳すと、どうしても私たちは外見的な美しさを想像してしまいますから、あえてそのように訳すことを避けたのかも知れませんが、「カロス」ということばは、人の心と思いを神ご自身に向けさせるものを指していることばなのです。

皆さんは花の美しさを見て、花の美しさは人知を超えたものであることをお認めになるのではないでしょうか。「カロス」ということばは、人知を超えた世界、人の心を神に向けさせる、“感動をもたらす美しさ”という意味なのです。

ですから、イエスが「わたしは良い牧者です」と言われた時、何にもまして、イエスは“わたしはあなたがたに父なる神を仰がせる者です”という意味なのです。人の心に、父なる神(神の愛)を意識させる存在、それが「良い」ということばの意味なのです。

※もう何年前になるでしょうか、少なくとも十数年以上前になると思いますが、聖書を東北地方のことばである気仙語(宮城県気仙沼市)に翻訳された方が、あるインタビューに応えておられる様子が報道されたことがありました。

カトリックの方なのですが、お医者さんで、聖書を原語から翻訳されたものであることを改めて知りました。医者として患者さんたちを診ながら、この気仙沼地域の人々に自分たちのことば・方言で聖書を読んでほしい、その一心で翻訳をされたのです。

私はその方のおだやかで、にこやかに話される様子や、しかし、聖書のみことばの意味を話される時や、聖書が語っている希望を話される時の、凛としていながら何か輝いておられる姿を見ながら、いやあ、何と魅力ある人もいるものだなあと思いました。私はその方が話しておられる様子を見ながら、私も聖書が本来伝えている元々の意味をもっと学んで、自分に委ねられている人々に分かることばで、みことばを伝える者となりたいと願いました。

神を求めないではおれなくするもの、人の心を神に向けさせるものが“美しく、魅力に満ち”、そして「良い」ということばの意味なのです。

イエスは「わたしは良い牧者です」と言われました。それは、本当の意味で、イエスが私たちの心を神に向けさせてくださることの出来る唯一のお方であるからです。

 

3.それではどうして、イエスなのか。

どうして、イエスは私たちを神に近づけることがおできになる唯一のお方なのか。

11節「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます」

15節「わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます」

18節「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです」

羊を守るためにいのちがけで戦った羊飼いたちはいたと思います。中には、獣との戦いで怪我をした者もいたことでしょう。

しかし、羊のために、自分からいのちを捨てた人はいません。イエスは、神から与えられた使命を果たすために、ご自分からいのちを捨てられたのです。

イエス・キリストは、罪の奴隷となって自己本位でしか生きることができなくなっている私たちを罪の束縛から救い出し、解放して、心に平安と喜びを与え、神と共なる永遠のいのちを与えるために、そして、私たちがその与えられたいのちを豊かに生きる者とされるために、ご自分から十字架にかかっていのちを捨ててくださったのです。

ご自分の命を捨てて、私たちに救いを与えてくださったのです。ですから、イエスは「良い牧者」なのです。そして、私たちの救い主なのです。

このお方に心からの賛美と感謝をささげましょう。