たましいに安らぎを

「たましいに安らぎを」  マタイの福音書11:25~30   6月24日

 

28節は有名なことばです。よく教会案内の看板などにこのことばが記されていることがあります。私が今から45年前に初めて教会を訪れた時は夜の伝道集会であったのですが、暗い道からその教会の敷地に入りまして目に付いたのが、電燈に照らされた教会の看板で集会案内が記されていまして、そこに、この28節のみことばが記されていました。そのみことばに何か私も招かれているような思いがしてうれしかったことを覚えています。

 

1.イエスのことばの背景

人々が神から離れて自分中心に生きてさ迷っている中で、神に立ち返って神を信じて生きる者とされるために、イエスは力あるわざ(奇跡)をなさったのです。しかし、コラジンとベツサイダ、そしてカペナウムの人々は悔い改めようとはしませんでした。

20節にはそのことを「責め始められた」とありますが、イエスが宣教の拠点とされた地域の人々が悔い改めようとしない姿を見て、イエスはどんなにか心を痛められ、疲労感を覚えられてかと想像いたします。

しかし、イエスは25,26節「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした」と言われました。

神の御子であるのに、そしてその証拠としての力あるわざをなさったのにも関わらず、ご自分が人々に受け入れられなかったことをも、父なる神のみこころであるならば、それを良しとされたのです。

なぜ、イエスはそのようにおっしゃることができたのでしょうか、

それは27節の「すべてのものが、わたしの父からわたしに渡されています」ということばにヒントがあります。イエスは、すべてのものは神から委ねられていると自覚しておられたので、人々から自分が受け入れられなかった時にも「これがみこころにかなったことでした」とおっしゃることができたのです。

 

2.28節の招きの意味すること

「すべて疲れた人、重荷を負っている人は」

①当時、パリサイ人たちは律法を厳格に守ることをもって神に従っているとしました。

イエスが誕生された夜、羊たちを寝ないで番をしていた羊飼いたちのことが出て来ますが、彼らなどは律法を厳格に守ろうにも守れなかったのです。そのような人々には当時のパリサイ人たちの求めることは、重荷でしかなかったのです。

しかし、主の使いはそのような羊飼いたちに現れたのです。そして、イエスはそのように律法を厳格に守ることを要求されても重荷にしかならない人々を招かれたのです。

②「重荷を負っている人」ということばは原語のギリシア語では、文法的には受動態となっています。ですから、自分の意志とは別に、外から負わされた重荷を意味しているのかも知れません。寝ないで羊の番をしていた羊飼いたちもあるいは、家族を養うためにやむを得ずそのような仕事に就く以外に道はなかったのかも知れません。イエスはそのような重荷を負わされて疲れ果てている方々を招いていてくださいます。

③そしてそれとともに、ここでイエスが語られた中心的なことは、誰か他者から負わされた重荷というよりも、自分自身で負っている重荷に疲れ果ててしまった姿を表しています。

私たちのいのちはある意味で自分のものではありません。身体もそうであると思います。そして、からだだけではなく、私たち一人ひとりの人生もまた、本当は神から委ねられたものであるのではないでしょうか。

本当は自分のものではなく、自分にゆだねられている人生の中で、ある時は辛く悲しみに満ちたところを通されて、疲れ果てても止むを得ないところを神は通されることがあるかも知れません。そして、神は疲れ果てても止むを得ない私たちをこそ招いていてくださるのです。「わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」。

 

3.29節の意味すること

「わたしは心が柔和でへりくだっているから」とあります。ギリシア語の「柔和」ということばは、“神とそのみ旨に全く従う”という意味から来ていることばです。神と神のみ旨に全面的に従うので、どのような時でも柔和であり得るのです。

イエスは神の御子であるのに人々から受け入れられず、本当はどんなにか疲れを覚え、がっかりされてもおかしくなかったのです。しかし、イエスはそのことをも神のみ旨にお任せしているお方なので、私たち疲れ果てた者がイエスの元に行く時に、たましいに安らぎを与えられるのです。

誰も自分が持っていないものを与えることはできません。イエスは「柔和でへりくだって」おられるお方なので、私たちに、柔和で有り得る世界、いろいろな出来事に直面しても、神とそのみ旨に従うという柔和な世界に招くことがおできになるのです。

そしてそのイエスは、29節「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」とも、招いていてくださいます。

 

「くびき」とありますが、昔は牛や馬に農機具をつけて、田んぼや畑を耕しました。そして、二頭の牛や馬にひかせる時、二頭がバラバラにならないように「くびき」を着けたのです。くびきを負うと、いっしょに歩調を合わせることができるのです。そして、一頭ではとても出来ないような仕事でも、二頭で担うならば出来るのです。

 

私たちにはいろいろと負うべきくびきがあるかもしれません。

しかし、すべてにまさって、イエスのくびきを負うお互いでありたいと思います。

イエスのくびきを負う時に、私たちのたましいは平安を得るのです。イエスから学ぶ以上に意味のあることはありません。

そして、イエスが私の隣にいてくびきを負ってくださるというのです。

神の御子であるお方なのに、私の隣でくびきを負って、共に歩んでくださるというのですから、こんなに畏れ多く、そして感謝なことはありません。