母の愛は無償の愛

「母の愛は無償の愛」  使徒の働き20:35      5月13日

 

今日は「母の日」ですが、イエスが語られた「受けるよりも与えるほうが幸いである」というみことばに心を留めたいと願っています。

 

先日、世界各地で活躍している日本人を紹介するというテレビ番組で、カンボジアで孤児たちを養っている63歳の女性に関する報道がなされていました。

その方は、何不自由のない恵まれた家庭環境の中で生まれ育ち、母親の豊かな愛情の中で育つのです。しかし、高校生のある日、学校に向かうために家を出た所で、一人の見知らぬ女性が声をかけて来て、〝 私があなたの実の母親なのよ 〟と打ち明けたのです。彼女の心の傷は覆いがたく、それから、彼女はあんなにも愛情をもって育ててくれた、育ての親を避けるようになって行くのです。

大学を卒業し、JALの国際線のキャビン・アテンダントとなり、学生時代の同級生と結婚もし、幸せな生活を続ける中で、高校生の頃から持っていたアフリカの貧しい人々に対するボランティア活動をしてみたいと願うようになりました。JALは、ボランティア活動を認めていまして、1年ないし2年のボランティア活動を終えてから元の職場に戻る制度があったからです。

彼女はそれを夫に打ち明けるのです。〝アフリカで井戸掘りのボランティア活動をしてみたい〟。しかし夫は反対してこう言ったのです。〝女にいったい何ができる〟。それ以来いろいろな意見の相違が出て来まして、数年後やむなく離婚することとなりました。そして、海外でボランティア活動をするために、45歳までキャビン・アテンダントをして資金を準備するのです。それから8年間、病気で倒れた伯父の看病をし、その伯父が亡くなってから、彼女はボランティアをするためにカンボジアの孤児院に向かうのです。

その方が初めてカンボジアの孤児院を訪れた時、その孤児院の状況は、それはひどいものであったようです。孤児たちは食べ物にも事欠いてひもじい思いをしている姿を見て、彼女の腹が決まったのです。一時的なボランティアではなく、孤児たちのために自分はこの地で働くと・・・。

今現在、28人の孤児たちと一緒に粗末なベッドに寝起きし、そして、自給自足をするために雑草を刈って畑にし、稲を植え、野菜を育て、孤児たちを学校に通わせ、私財(2千万円ほど)を投げ打って日本食のレストランを建てて、経営し、学校を卒業した孤児たちの働き場としているのです。

孤児一人一人にとって、その方は母親なのです。大切な大切な母親なのです。

皆、親から捨てられた孤児たちです。彼らがどんなに、その方を母と慕い、心から感謝をしているかが良く分かりました。日本食のレストランの仕事を終えて帰って来ると、小さな子たちが、我も我もとすがり付いて来るのです。足にまとわりついて離れようとしないのです。子どもたちの目はみな、キラキラとしていて、その顔は皆、喜びに輝いていました。

そして、その方の受けることを何も求めないで、与えることに幸せを見い出している爽やかな笑顔に深い感動を覚えました。

 

その人はこう話されました。

〝 育ての母には本当に感謝している。自分がこうして孤児を育てることになったのも、自分の子ではないのに、私に愛情の限りを尽くして育ててくれた母がいたからです。母のようになりたい、しかし、私は母にはとても及ばない〟。

高校生の時に、実の母が突然現れて、心は大きく傷付き、それゆえに、育ての親に素直になれない時期があったのでしょうけれども、時間が経過する中で、育ての親の愛に目が開かれたのでしょう。

育ての母の真実な愛を受けた方であったのです。

母の愛は無償の愛と言いますが、実の子ではないのに、報いを望まない愛を受けたことがよくわかって、この方は与える幸いを知ったのではないでしょうか。

母親と同じように無償の愛を与えること、報いを望まない愛を注ぐこと以上の幸いはないと知ったのではないでしょうか。

 

しかし、私たちは受けることを求めて止まないお互いですね。自分が受けたいのです。人から親切にしてもらいたい、人から良い評価を受けたい、人からほめてもらいたい。人から、人から・・・です。人にではなく、人から・・です。

私たちは受けることが幸せだと思っているのです。しかし、イエスは「与えるほうが幸いである」と言われたのです。私たちが受けることを求めて止まないのは、本当は自分がどんなにか愛されている存在であるかを知らないところから来ているのではないでしょうか。

私たち人間は皆、神を離れて自己中心となってしまって、神の愛を見失ってしまったので、心の中心に本来あるべき最も大切な神の愛を見失ってしまったのです。一人の人をかたち造る、最も大切な愛を知らないのです。ですから、受けることに渇いて渇いて、受けることを求めて止まないのです。

 

しかし、聖書は、私たちに注がれた神の愛、そして今も注がれている神の愛を記しています。

「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから」(ヨシュア記1:9)。

「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない」(イザヤ49:15)。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3:16)。

「正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)。

 

母の愛は無償の愛です。そしてそれは、神の愛の現れです。

私たちを愛してご自分のいのちを与えてくださった神の愛を知るならば、私たちも「受けるよりも与えるほうが幸い」である世界に目が開かれます。

私はカンボジアの孤児院で労しておられるその方を見まして、私自身の心の奥に、人から受けることを求めて止まないものがあったことに気が付きました。

神のみことばのご用をする者として召され、神の愛を説きながら、そして、

「受けるよりも与えるほうが幸いである」とのみことばを知っていながら、

私の心の奥の深いところには、受けることを求めて止まない者であったことを示されました。

私のために十字架にかかって、私が感謝を し尽せないほどの愛を注いでくださったイエス様のゆえに、私も「与えるほうが幸いである」という人間本来の世界に歩ませていただきたい、と願っています。

報いを望まないで、与える人こそ本当に幸いなのです。報いを望まず、与え得ること以上の幸いはないのです。皆さんと共に、その幸いな道を歩ませていただけたら、こんなに感謝なことはありません。