人ではなく、神を畏れる幸い

「人ではなく、神を畏れる幸い」 使徒の働き5:17~32    5月6日

 

聖書にこんなことばがあります。「人を恐れるとわなにかかる」(箴言29:25)。

私たちは人間社会に生きていますので、時として人を恐れるということがありますね。

聖書にも人を恐れた人々の記述があります。

イスラエルの民がエジプトで増え広がった時に、エジプトの王ファラオをはじめ人々はイスラエルの民を恐れました。それは奴隷であるイスラエルの民が力を増して自分たちを脅かしかねないと恐れたからです。出エジプト記1章には、人を恐れたエジプトの人々と、神を恐れたへブル人の助産婦の姿が対照的に記されています。

新約時代には、イエスがローマの裁判にかけられた時に、ピラトはイエスには死罪に当たるような罪を認めることができませんでした。しかし、「十字架につけろ、十字架につけろ」という叫びが大きくなりまして、ほっておいたならば、暴動が起きるかもしれないと恐れて、ピラトはイエスを十字架につけることを許可したのです。ピラトは人を恐れて、悪に手を貸したのです。

 

今日の箇所では、使徒たちを捕らえたのは、「大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派」の人々でした。彼らは、ユダヤ人社会の支配者階級でした。そして彼らは、復活を信じていませんでした。使徒たちの宣べ伝えた、イエスの十字架の死と復活を信じて救いに与かる人々が増えて行ったものですから、それを恐れて迫害を加えんとしたのです。自分たちの立場が危うくなると考えたからです。

先ほども見ましたが、社会の指導的な立場にある人が人を恐れると、権力を振るって迫害するという道どりを辿るのです。

 

そして、人に対する恐れは、迫害する側だけではなく、迫害される側の人は害を受けるのですから、恐れを覚えるのが自然と言えます。これから害を受けるかもしれないと分かるならば、誰でも恐れを覚えることでしょう。

19節「ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き」

20節「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」と告げたのです。不思議な出来事が起きたのです。

23節「獄舎は完全にしまっており、番人たちが戸口に立っていたが・・」とありますので、誰かが手助けをしたとか、誰かが番人に眠り薬を与えて眠らせて、助け出したということではないことがわかります。

捕らえられて留置場に入れられて、内心は恐れを覚えていたかもしれない使徒たちを、主の使いは不思議な方法で助け出したのです。

そして、『「行って宮の中に立ち、人々にいのちのことばを、ことごとく語りなさい」と言った』とあります。「宮」は、神の聖なるご臨在のあるところです。そして、イスラエルの民が神を礼拝するために集まるところです。しかし、当時、宮の中は、サドカイ人たちが権勢を奮っていました。

主の使いは、使徒たちに向かって、たとえサドカイ人たちが権勢を奮っていたとしても、そこは神の聖なるところなので、そのような彼らを恐れることなく、彼らの真ん中で、宮に神を礼拝するために来る人々に向かって、いのちのことば、福音を語るように命じたのです。使徒たちは励ましを受け、21節を見ると、使徒たちは夜明けごろ、とありますので、直ちに従ったことがわかります。強いられてではなく、喜びに満たされて彼らは直ちに従ったのです。

その同じころ、大祭司たちはそのことを知らず、使徒たちを引き出すために役人たちを遣わしたのですが、牢の中にはだれもいませんでした。この不思議な出来事、理解できない出来事の背後にある霊的なことには全く無関心であったのです。彼らの関心は神になく、ただ人にのみ向けられていたのです。

 

関係という視点から見ますと、人との関係は横の関係になります。

一方、神との関係は縦の関係になります。布は縦糸と横糸が組み合わされて出来上がっています。私たちの人生を布にたとえるならば、縦糸である神との関係、そして横糸である人との関係から、私たちの人生は成り立っているのです。

横の関係だけでは、人生の本当の意味はわからないのです。

何か人間関係でいやなことに直面したならば、それをもたらした人に対して悪い感情だけが残るのではないでしょうか。

「神が愛する人たち、・・・すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)とありますが、人間関係の苦しみをも用いて、神は益としてくださるのです。

大祭司たちは使徒たちを問い正して言いました。

28節「あの名によって・・・そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか」。彼らは自分たちの保身しか頭になかったのです。神を畏れるということがなかったのです。大祭司はイスラエルにおいては、神の民を導くべく立てられた祭司です。イスラエルの民の指導者として立てられた器です。しかし、心は神に向けられることなく、自分たちの保身しか心になく、それゆえに人を恐れるしかなかったのです。何とも哀れで、そして残念な姿です。

 

一方、使徒たちは当時のユダヤ人社会にあっては、名も無き人々でした。

しかし、彼らは聖霊に満たされて語ることができたのです。

29~32節「人の従うより、神に従うべきです。・・・」

イエスの十字架の死は罪ある私たちの身代わりの死でした。そして、イエスがよみがえられたのは、私たちが罪の赦しを受けるためでした。

使徒たちは、「私たちはこれらのことの証人です」と言いました。イエス・キリストを信じて神の救いに与かった証人とされ、イエス・キリストをお証しできるほど幸いなことはありません。そして、弟子たちは、「神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊も証人です」と言いました。

 

私たちとともに、聖霊が証人となっていてくださる、こんなに力強いお方はいません。

神にすべてをささげるならば、聖霊はその人とともにあってくださって、人を恐れる生き方から解放して、神を畏れて歩む生涯へと導いてくださいます。神を畏れて生きる生涯ほど、心は喜びに満たされ、そして楽しいことはありません。私たちにそのような世界へと招いていてくださっている神を仰ぎましょう。