愛が勝利をもたらす

「愛が勝利をもたらす」 使徒に働き6:1~7      5月20日

 

もし、絵にすることが許さるたとしたならば、上に神の世界があり、下にこの世の世界があるとしますと、その境界線に十字架が立っているのです。イエス・キリストは罪の束縛下にある人間を救うために人となってこの世に来られ、私たちの罪を負って十字架にかかってくださいました。イエスが人となられなかったならば、そして、十字架にかかってくださらなかったならば、神の世界とこの世は分離されたままであったのです。

しかし、神の世界とこの世の境に十字架が立てられました。十字架は神の世界に入ることのできる唯一の道なのです。ですから、イエス・キリストの福音をゆだねられた教会もまた、神の世界とこの世の境に立っているのです。

そして、私たちは神の救いに与かり、神の子どもとされたのですが、罪に満ちたこの世にあって私たちは生きていますので、いろいろな問題・課題が、教会にも起きてくるのです。

 

1.何が起きたのか

1節「なおざりにされていた」とありますが、教会内に差別待遇があったことがわかります。へブル語を使うユダヤ人たちは、自分たちが正当なユダヤ人であるとして、ギリシア語を使うユダヤ人の最も弱い立場にある やもめたちを軽んじ、差別待遇したのです。

1節「苦情が出た」とありますが、毎日の配給という切実な問題でしたし、弱い存在に対する差別待遇という救いに与かった者の集まりの場にはふさわしくない出来事でしたので、実際に起きている課題に目を塞ぐのではなく、それを明らかにしました。

実は、神はこのことを通して、彼ら、へブル語を使うユダヤ人とギリシア語を使うユダヤ人を試されたのです。問題・課題に直面して、教会が何を大切なこととして、どのように対応するかということを、神はご覧になっていたのです。

 

2.使徒の対応

12使徒は直ちに対応しました。それはリーダーとしての責任でもありました。まず、神に召された使徒としての優先すべき務めを明らかにしました。

2節「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません」。そして、4節「私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します」と言いました。

使徒たちは、神の御子イエスが自分たちに委ねてくださった福音の重要性、その責任の重さを知れば知るほど、祈りとみことばの奉仕に専念せずしてなし得ないことであることを深く自覚していたことでしょう。

祈りによって神の働きは進められるのです。目に見えるところではなく、神がみわざをなしてくださることを信じて祈る祈りによって神の働きは進められるのです。

それとともに、具体的な適切な対応も大切なことです。

神に祈りをささげるならば何もしなくてもよいか、そんなことはありません。

使徒たちは七人を選ぶようにと提案をしました。選出基準は「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち」です。そして、「兄弟たち。あなたがたの中から・・・」と、弟子たち自身に七人の選出を任せたのです。それは、使徒たちの弟子たちに対する信頼の現れでもありました。

 

3.使徒たちの提案に教会はどのように応じたのか

弟子たち全員は使徒たちの示した基準の元で七人を選びました。

5節:ステパノ、ピリポ、プロコロ、二カノル、ティモン、パルメナ、ニコラオ。

ニコラオは改宗者であり、異邦人ですが、他の6名の名前は皆、ギリシア名です。ですから、弟子たち全員は苦情を言ったギリシア語を使うユダヤ人たちから選んだのです。

言葉・文化の違いは決して小さなことではありません。様々な違いを乗り越えることはそんなに容易なことではありません。違うのだから、別々にやれば良いではないかという考えが出てもおかしくありません。

しかし、教会の直面した課題に対して、教会はそれを愛の一致が現れる機会としたのです。神の愛が勝利する機会となったのです。

「やもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていた」という、かんばしくない出来事に対して、教会が聖霊に導かれて対処した時に、愛による一致が教会の本質的なことであり、教会のいのちであることが明らかになる機会となりました。神は、弟子たちが、そのことに目が開かれるために、このような出来事が起きることを許されたのでしょう。

 

言葉や文化の違いだけではなく、私たちはお互いの性格や考え方の違いを受け入れることでも、そんなに容易なことではないことを体験しているのではないでしょうか。神の存在と、そのお方に対する愛と感謝がない世界では、お互いを受け入れることは、実際には起こり得ない世界であると思います。

しかし、弟子たちは違いを受け入れ、互いを愛し合う一致を与えられました。

神の愛と恵みのゆえに、違いを受け入れ、互いを愛する一致という信仰に彼らは導かれたのです。神はこのような出来事を通して教会の大切にすべきこと、教会の存在意義を明らかにされたのです。

 

最後に7節に目を留めて締めくくりたい。

「こうして・・・また、祭司たちが大勢、次々と信仰に入った」

教会がかんばしくない問題に直面して、それを神の愛の麗しさを表す機会とした時に、神のことばはますます広まって行き、信仰に導かれる者が次々と起こされたというのです。

祭司はユダヤ社会にあっては、支配的な立場にあり、それまで信仰の告白をする者はいなかったのです。いたとしてもごく僅かであったことでしょう。

しかし、教会が愛によって問題を解決して行く姿を見て、それまで頑なだった祭司たちの心が溶かされたのです。地位・立場を超えた麗しい愛を目撃して、彼らも進んでイエスの愛の交わりに入ることを願ったのです。

 

日本において、イエス・キリストを信じる人が起こされることは決して容易なことではありません。しかし、教会が神の愛に満ちているならば、人々はそこに、生きておられる神を知らされて、救いを求める方々が起こされることでしょう。

私たちの教会も愛に満ちた教会でありたい。