勇敢であれ

「勇敢であれ」 使徒の働き4:13~22          4月15日

 

「英国王のスピーチ」という映画があります。ジョ―ジ6世の実話に基づく映画です。

父のジョージ5世には3人の王子が生まれたのですが、後にジョージ6世となる次男は5,6歳の頃から吃音となるのです。彼は吃音を直したいと願って、いろいろな専門家の指導を受けるのですが、一向に良くならないのです。

吃音になるというのは、精神的な要素が大きく占めるものなのに、そのことに心を向ける専門家がいなくて、ただ技術面だけで解決を与えようとするものですから、良くなるどころか、悪くなる一方であったのです。

そんな中で妻が、ある言語障害療法士を捜して来ました。

オーストラリア人のライオネル・ローグ。彼は下町の自分の家で、吃音の子どもたちや人々を癒しているのです。ジョージ6世の妻はお忍びで来て、助けを求めるのですが、ローグの答えは、この治療には、「信頼」と「対等な立場」が必要であること、そして、治療はここで(王室に行ってではなく)行うと告げるのです。

ジョージ6世は、ローグの家で治療を受けることになりました。

ローグは王を愛称のバーデイで呼ぶのです。ローグにバーデイと呼ばれて、王は怒りを爆発させるのです。しかし、ローグは礼儀をもって接するとともに、「信頼」と「対等な立場」を変えようとしないのです。王を愛称のバーデイと呼び、自分をライオネルとファーストネームで呼ぶように求めるのです。

いよいよ王位を継ぐことになり、ジョージ6世にかかるプレッシャーは大きくなるばかりで、重圧に押し潰されて悩み苦しむのですが、ローブはこう言うのです。「あなたはもう自分の道を生きている」。吃音が直った訳ではない、しかし、それに取り組んで、王となろうとしているあなたの人生はまぎれもなく始まっている、あなたは誰の人生でもなく、自分の道を今生きているのだ、ということなのでしょう。そして、「あなたは良い王になれる」と励ますのです。

その頃、イギリスの王として、ドイツに宣戦布告をするラジオ演説をすることになったのです。ジョージ6世が吃音であること、しゃべることがいかに彼にとって苦痛なことであるかは、すべての国民の知るところでした。

ラジオ演説する小部屋に王はローグを伴って入りました。部屋の中は二人だけです。緊張の余り、直ぐには声が出ない王に向かって、ローグは向かい側、マイクの後ろに立って、こう語りかけるのです。「さあ、私に話すように話しなさい。友に話すように話しなさい」。 演説が始まりました。

「この重大な時、私のことばを心からの深い思いを込めて、国民に送る(to you myself)。ドイツとの平和の道を何度も探ってきたが、我々は戦うことを余儀なくされた。これと戦わないことは、力がすべて、力が正しいということになってしまう。世界のあらゆる文明が損なわれる。多くの者にとっては二度目の戦争となる。辛く苦しい戦いが待っていることであろう。しかし、この戦いは戦わなければならない。すべての国民よ、試練の時を共に乗り越えよう。敬虔な心で、これに立ち向かうならば、神の力によって我々は勝利することができる」。

実際の戦いにおいては、首相となったチャーチルの働きがあったからこそ、イギリスはドイツの攻撃に耐えて、勝利を得たのだと思います。

しかし、吃音で苦しんでいたジョージ6世のラジオ放送を通して、国民は困難な戦いに立ち向かう勇気と、心を一つにして戦い抜く決意を新たにしたのです。

 

私はその映画を観ながら、ナチス・ドイツと戦うにあたって、あらゆる困難に直面せざるを得ない状況下で、イギリスの国民に語るにふさわしい王とされたのは、ジョージ6世であったこと、そこに神の知恵があったのだと思わせられました。そして、ジョージ6世は神から与えられた自分の人生・自分の道を生きたのです。

 

私たちも、一人一人に生きる道が備えられています。

それぞれ、抱えている課題も異なることでしょう。通る道のりも異なることでしょう。

しかし、神が私たち一人一人に備えてくださった道のりは、神が深い愛と配慮をもって備えてくださった道であると、神を信頼して歩ませていただきたいと思うのです。

そして、私たちはこの日本で生活をしています。キリスト教国と呼ばれる、クリスチャンの多い国ではなく、神を信じる者の少ない日本で、神の恵みのゆえに神を信じる者とされて、この日本で生きて生活をしています。それゆえの戦いもあります。

神の御子イエスを信じて生きようと願う者は、世から敵対されるという厳しい現実に直面することでしょう。なぜならば、世はサタンが支配する世界であるからです。

 

今日の箇所のペテロとヨハネもそうでした。

イエスは神の御子であるのに、自分たちと同じ人となってくださった。そして、名もない一介の漁師に過ぎなかった者に、イエスは声をかけて弟子としてくださった。自分たちと同じ釜の飯を食べ、生活を共にしてくださった。このお方こそと、すべてを捨てて、弟子たちは従って来たのです。

しかし、イエスがご自分は十字架につけられる、そして、3日目によみがえると、前もって話しておられたのですが、彼らは本当のところ何も分かっていなかったのです。

イエスが人となって来られた目的、最も肝心なことを理解することができなかったのです。なぜ、神の御子が十字架につけられなければならなかったのか。なぜイエスは、よみがえらなければいけなかったのか、何も分かっていなかったのです。

それゆえに、イエスが捕らえられるや否や、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまったのです。しかし、イエスが前もって予告されたように、イエスは死からよみがえって、弟子たちにご自身を現わし、「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるから」、それを待つように言われ、イエスの約束を信じて待ち望んだ時に、ペンテコステの出来事が起きて、弟子たちは聖霊に満たされて、すべてが分かったのです。

イエスの十字架の死は、正に自分たちのような者の罪の身代わりの死であったこと、いえ、すべての人の身代わりの贖いであったこと、そして、イエスを信じるならば、

誰でも神の救いに与かることを知ったのです。すべての人間の罪を贖うことができるのは、神の御子イエスが十字架につけられることなくして、起こり得ないことであることがわかったのです。

彼らは、それを伝えないではおれなかったのです。イエスの死と復活を宣べ伝えるなら、迫害されることは明らかでした。自分の身に何が起きるかわからない、殺されるかもしれない。しかし、それでも語らないではおれなかったのです。

 

そして、その議会で、18節「イエスの名によって語ることも教えることも、いっさいしてはならないと命じ」られたのです。それに対して、二人は、19,20節「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません」と言いました。このペテロとヨハネの信仰によって教会の働き、神の働きは前進して行ったのです。

29節「主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください」と祈り求めていますが、彼らは当時の宗教指導者たちの脅しに、あるいは心の中に恐れを覚えたのかもしれない。

しかし、それ以上に、イエスの愛をイエスの恵みを、そして、見たこと聞いたことを話さないではおれなかったのです。そして、そのように祈り求めて、31節「彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした」のです。

弟子たちは、イエスに従った最初から聖霊に満たされていたわけではありません。

本当のところは最も肝心なことがわかっていなかった彼らです。しかし、そのようなみじめな信仰を辿る中で、イエスが約束してくださった聖霊に満たされることがどうしても必要であることに目が開かれ、飢え渇きを覚え、それを切に祈り求めて、初めて彼らは聖霊に満たされたのです。

真の神を信じて生きることを願うならば、誰であってもこの世との戦いに直面します。

それは避けることのできない現実です。特に日本においてはそうであることでしょう。

しかし、この世との信仰の戦いは、私たちの信仰を純粋にし、そして私たちの信仰を強めるものなのです。私たちはこの世との信仰の戦いに直面するときに、イエスの愛と恵みが、どんなに測り知れないほどのものであるかに目が開かれるのです。

 

パウロは晩年、自分の殉教の死を意識して、愛する弟子テモテに手紙を書き送りました。その中でこう言っています。

「信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい」(Ⅰテモテ6:12)。

「信仰の戦いを立派に戦い」前の訳では、「信仰の戦いを勇敢に戦い」となっていました。このことばは、私たちにも語りかけているのではないでしょうか。

信仰の戦いを勇敢に戦うお互いでありたい。