落穂拾い

「落穂拾い」 ルツ記2:17~20           4月8日

 

ある人はルツ記に関してこう述べています。

〝若いやもめがその姑に対して示した情熱のあふれる誠実な愛の物語である〟。

ルツ記の人間関係では嫁姑関係が出て来ます。しかし、ルツ記の主題は嫁姑関係ではなく、別なところにあります。今日はそのことに心を留めることにします。

 

ルツ記の主要登場人物は3人です。

主人公であるルツ、そして、姑のナオミ、そしてルツを娶ったボアズです。

時代は士師記の時代です。神を捨てて、「それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」(士師記21:25)時代です。ことばを変えて言うならば、神を離れて、それぞれが好き勝手に生きていた時代です。そのような時代の中に起きた出来事ですから、余計にこのルツ記は光り輝いているのですが・・。

 

ユダヤの地に飢饉が訪れました。

聖書には度々、飢饉のことが記されています。そして飢饉を契機としていろいろな出来事が起きているのです。

ユダヤの地に飢饉が訪れて、それから逃れるために、ベツレヘムにいたエリメレクは妻のナオミと、二人の息子マフロンとキルヨンを伴って、モアブの地に行き、そこに留まるのです。モアブは死海(死の海)の東側にありますが、その地では飢饉はなかったようです。

そこに留まっている間に、エリメレクが死にまして、ナオミと二人の息子が後に残され、二人の息子はモアブの女性を妻に迎えました。ルツとオルパです。

そして、約10年後に、今度はマフロンとキルヨンの二人も亡くなってしまったのです。そして二人とも子どもが与えられなかったようです。ですから、ナオミから見るならば、孫もいなかったのです。夫と息子たちを失い、孫もいないのですから、1:20「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから」と言って、自分の身に起きたことを嘆いています。ナオミという名前の意味は、20節の欄外を見ていただきますと、〝快い〟という意味の名前です。そして、マラとは〝苦しむ〟と言う意味です。ですから、ナオミは自分をナオミ(快い)と呼ばないで、マラ(苦しむ)と呼んでくださいと言ったほどに苦しんだということなのです。

ナオミは夫と二人の息子に先立たれてしまい、そして自分に関わる子孫もないという中で苦しむのですが、1:6「主がご自身の民を顧みて、彼らにパンを下さった、とモアブの地で聞いた」ので、ユダの地に戻ることにしたのです。

ユダの地の飢饉がなくなったことに現わされる、神の顧みを自分の帰るべきところとしようとしたのです。

そして、ナオミは二人の嫁に、それぞれ自分の母の家に帰るように勧め、そこで再婚して、平和な暮らしができるようにと願うのです。弟嫁であるオルパは姑のことばに従って帰って行きました。

 

しかし、ルツは帰ろうとしないのです。

「お母様の行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」(1:16)。

そして、ベツレヘムに着くと、ルツは落穂ひろいをして甲斐甲斐しく働くのです。イスラエルでは、小麦の収穫をする時に、落ちたものはそのままに残して、貧しい者が拾うことができるようにとの定めがありました。

そして、ルツが落穂を拾いに行ったのがボアズの畑でした。

2:20を見ますと、「買戻しの権利のある親類の一人です」とあります。20節の欄外、②レビ記25:25「もしあなたの兄弟が落ちぶれて、その所有地を売ったときは、買い戻しの権利のある近親者が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない」。

所有地は大切なものでした。

神はアブラハムに「わたしが示す地へ行きなさい」と命じられ、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と約束をなさいました。約束の地・カナンです。

それは神から約束の地として与えられたものでありますので、それそれに与えられた所有地は神からそれぞれに与えられたものとして、それを大切に守るためにも、もし、落ちぶれて土地を売るような事態になれば、親類で買戻しの権利のある者がそれを買い戻すようにと定めたのです。

ルツ記には「買い戻す」「買戻しの権利」ということばが、20回も出て来ます。それに「買う」ということばも含めると、23回も出て来ます。

聖書を理解する鍵は、同じことばが何度でも出て来る場合、そのことばがそのテキストの主題となっています。ですから、ルツ記の主題、中心テーマは「買い戻す」ということにあるのです。

 

2:3、ルツが落穂拾いのために行った畑は、はからずもナオミの夫のエリメレクの一族に属するボアズの畑であったのです。ルツの信仰に答えて、神がルツをボアズの畑に導いてくださったのです。そして、4節を見ますと、「ちょうどそのとき」とありますが、ボアズが畑に来るように神が導いておられることもわかります。

そして、ボアズがどのような人物であったかと言いますと、4節を見ますと、

畑の持ち主であるボアズと使用人との間に、温かい信頼関係があることがわかります。ボアズがどのような人物であるかを示しています。

またルツに対するこの後のボアズの対応を見ますと、これも温かく細やかで真実な心遣いがなされていて、ボアズの人格の優れていることがわかります。

 

ルツはモアブの女です。当時、モアブの人間はユダヤ人たちが嫌った異邦人でした。神の選びの民から外れた人々であるとして、ユダヤ人たちはモアブ人に対して差別意識を持っていたのです。

しかし、ボアズはたとえルツがモアブの出身者であったとしても、彼女が姑に対して真実に尽くしたこと、そして、12節にありますが、イスラエルの神、主の元に、信仰をもってやって来たことのゆえに、偏見によって見ることなく、

ルツを正当に評価し、そして、「主から、豊かな報いがあるように」と祝福をしています。

 

4章3節を見ますと、ナオミは貧しさの中で、夫のエリメレクの畑を売ろうとしていたことがわかりますが、その畑を買い戻す最も近い権利を有する人は、

5節、モアブの女ルツをも引き受けなければならないことを知って断っています。買戻しの権利を放棄しています。

そして、次の権利のあるボアズが正当に、買戻しをし、10節、ルツをも買い取るだけではなく、妻として迎え入れたのです。ボアズがいかに優れた人物であったか、いかに神の御心にかなった人物であったかがわかります。

そして、これは新約時代のひな型となっているのです。

新改訳聖書で「買い戻す」と訳されていることばは、文語訳聖書では「贖う・贖い」となっています。「贖う」とは代価を支払って買い取るということです。買い戻すということです。ボアズが優れた人物で、神のみ心にかなった人物であったのですが、ボアズはイエスのひな型なのです。ボアズがエリメレクの畑を代価を支払って買戻し、異邦人であるモアブの女であるルツを妻としたのは、イエスが十字架の贖いによって罪人である私たちを救いに与からせてくださったことを示しているのです。

ルツは神の祝福からは遠く離れたモアブ人に過ぎませんでした。しかし、モアブの地でイスラエル人と結婚に導かれ、しかし、いまだモアブに住む者でしかなかったのですが、信仰によって姑ナオミに従って約束の地に入ることが許され、そして、落穂拾いをする中で贖ってくださるボアズに導かれたのです。

ですから、B・F・バックストン先生は、〝 落穂拾いの意味することは、魂の糧である聖書のことばを、落穂を拾うように、それを読むならば、たとえ落穂を拾うような立場にあっても、みことばは贖い主であるイエスの元に私たちを導いてくれる 〟と語っています。

 

3:1「娘よ。あなたが幸せになるために・・・」

ルツにとってナオミは姑ですが、姑は嫁の幸せを願っています。

「あなたが幸せになるために・・・」、そして、その幸せは買戻し・贖いに結び付けるものでした。買戻し・贖いによって与えられるものは、神から与えられた約束の地です。新約聖書のへブル人への手紙を見ますと、神の約束の地・カナンは、神の安息を表していることがわかります。

罪を赦されて、神の元の帰ることができる、そして、神から安息・平安が与えられて、そこに憩うことができる。それは、イエス・キリストによって私たちに提供されています。人の幸せを願う愛、それがイエス・キリストに導くものであるときに、その愛は最もすばらしいものであるのです。