聖なる神の御前に

「聖なる神の御前に」  使徒の働き5:1~11     4月22日

 

今日の箇所には、悲惨な出来事が記してあります。

教会がスタートしてまだ間もない頃に起きた出来事です。何と、神を信じる者たちの集いの場で、アナ二ヤとサッピラの夫婦が死んだのです。なぜ、そのようなことが起きてしまったのでしょうか。

 

聖書全巻を通して、真の神は愛にして聖なるお方であると示しています。

愛のない聖・きよさも存在しませんし、聖・きよさのない愛もないのです。愛と聖・きよさは表裏一体なのです。

それでは、神の愛ときよさはどこに現わされたのでしょうか。

それはイエス・キリストの十字架において現わされました。神はきよいお方ですので、人間の罪を赦すことができませんので、イエス・キリストの十字架において、人間の罪を処罰してくださったのです。

そして神は愛なるお方ですので、神のかたちに造られた人間を愛して止まないがゆえに、人間の罪を贖うために、イエス・キリストは十字架にかかってくださったのです。イエス・キリストの十字架に、神の愛ときよさが現わされました。

 

そして、イエスはこの世におられた時、イエスのきよさは、どこに現わされたかと言いますと、ある人々に対しては、厳しく接するということを通して、イエスはご自身のきよさを現わされたのです。それは偽善に対してです。当時のパリサイ人たちに向かって、イエスは厳しい叱責のことばをかけられました。「おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう」(マタイ23:33)と言われました。偽善者たちに対して神の裁きがあると語られたのです。

 

今日の箇所の前の4章32節あたりから見ますと、

信じた者たちが、持ち物を共有していたことがわかります。このような共有制度がこの後もずっと続いたわけではないのですが、このような出来事となった背景がありました。 それは、当時、多くの人々は貧しい境遇にあったのです。

主の祈りに「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」とありますが、

当時は貧しい人々が多くいまして、その日、その日の糧を祈らないでは手に入れることもできない人々がいたのです。

ですから、経済的にゆとりのある人々が、自分たちの持っている財産を手離して、その代金で必要とされる人々に分け与えたのです。イエスが「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」と言われましたが、イエスがいのちまで捨てて、自分たちを愛してくださったことを知った弟子たちは、食べ物やいろいろな物に欠乏を覚えていた人々を助けようとしたことは、とても自然な流れであったのです。

4章の終わりの方に記されている出来事、そして、バルナバのしたことも出し惜しみする心ではなく、困っている人の助けとなりたい、助けとなることができれば、こんなにうれしいことはない、との進んでした行為でした。

 

しかし、アナ二ヤとサッピラには、進んでという心はなかったのでしょうね。

みんながやっているから、自分たちもしないと格好がつかないと考えたのかわかりませんが、アナ二ヤは持ち物を売り、2節「妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた」のです。

3,4節、そして8節の記述から、二人は持って来た代金は、持ち物を売った代金すべてです、と言って持って来たのです。

持ち物を売ったが、自分たちにも必要があるので、これはその一部ですと正直に話せば良かったのですが、あたかも全部であるかのように振る舞ったのです。

それを見たペテロは、4節「あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と指摘しました。多分、二人は神を欺くという大袈裟なことではなく、これくらいは別にどうってことはない位の意識であったのではないだろうかと想像いたします。そして、こんな些細なことは神様にはわからないだろうと考えたのだと思います。

 

聖書の示している神は全知全能の神です。

「主よ。あなたは私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます」(詩篇139:1~4)。

これはダビデの詩篇ですが、ユダヤ人の神概念でもありました。神は全能にして全知なるお方である。神はすべてのことを知っておられる、神は人の心の中さえご存じのお方である。

 

しかし、アナ二ヤとサッピラは、自分たちのしたこのちょっとしたことは別にどうってことは無いではないか、神は見ておられない、神はご存じない、だから偽っても大丈夫だと心の中で思ったのです。

 

人を騙したり、欺いたりすることはできることでしょう。しかし、神を騙すことはできないのです。そして、二人は神をあざむいた罪によって、死を迎えることになったのです。

この出来事は、「だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた」(4:32)とある、信仰による愛の交わりに、偽りと欺きをもたらしかねない行為でしたので、神の裁きが下されることになったのです。

しかし、神を信じて集まっている集りの中で、死者が出た、しかも二人も出たという出来事は大きな騒ぎと言いましょうか、話題となったのではないかと想像いたします。

〝 何事が起きたのだ、何事が起きたのだ 〟と騒ぎになったことでしょう。

5節「そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた」

11節「そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた」とあります。

神は聖なるお方で、決して欺かれることのないお方であること。神は偽善や欺きに対しては罰せられるお方であることが、神を信じて集まっている教会全体に、そしてそれを聞いたすべての人々に明らかとなったのです。

 

聖なる神の前に立つことのできる人は誰もいません。

しかし、イエス・キリストはそのような罪人である私たちの罪が赦され、聖なる神の前に喜んで立たしめる者とせんために、十字架にかかってくださったのです。

 

イエス・キリストの十字架の贖いは完全なものです。

ローマ8:1「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」とあります。キリスト・イエスにある者は罪に定められることは決してないのです。

イエス・キリストを信じるならば、誰でも罪を赦され、聖なる神の御前に立つことが許されます。驚くべき恵みです。聖なる神の御前に私たちを立つことを得させてくださる救い主イエスを賛美しましょう。