聖なる臨在

「聖なる臨在」    使徒16:19~28        12月31日

 

寒さも大分厳しくなって来ました。

しかしこの季節は夜には星が最もうつくしく見える時でもあります。皆さんの中には、あるいは夜、星を眺めるなんて絶えて久しい方もあるかも知れませんが、時には冬の夜空に輝く星をご覧になって、自然界の神秘・その自然を創造された神の臨在に触れてごらんになってはいかがでしょうか。今ですと、オリオン座がきれいですね。

今日の聖書の箇所は、自然界の夜ではなく、牢屋での夜の出来事です。

牢屋の中の真夜中の出来事です。今日はこの箇所から、神の臨在・聖なる臨在を学びたいと願っています。

 

1.何時(when)、どこで(where)起きた出来事なのか。

それは人生における夜、あるいは心の闇・絶望と言ったならばよいと思われる牢屋の中です。そこに囚人たちがいました。様々な犯罪人がいたことでしょう。彼らは捕らわれて暗い牢屋の中で鎖に繋がれていたのです。そして、彼らの心は真っ暗闇の中にあったと思われます。

そして25節に「真夜中ごろ」とあります。囚人にとっては、夜は最も辛い時間帯であったことでしょう。良心の呵責と寂しさ、そして家族を思い、愛する者を思い、千路に心が乱れて孤独にさいなまれた、辛い時間帯であったと思われます。

そんな彼らの牢屋に、パウロとシラスが捕えられて入って来たのです。むち打たれ、彼らと同じように足かせをかけられ、二人は一番奥の牢に入れられました。ある囚人は新参者にチラッと目をやったかも・・・。ある者は全く無関心であったでしょう。それは今までに何度も繰り返されて来た光景でした。

 

2.誰に(who)、何が(what)、起きたのか。

25節「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた」。囚人たちは不思議な光景を見たのです。パウロとシラスが神に祈りつつ賛美をしている姿です。二人はイエス・キリストを信じるならば神の救いに与るという福音を伝えたために捕えられ、むち打たれ投獄されました。

それは、全くのいいがかりでしたし、捕えられてむち打たれるようなことでは全くなかったのです。ですから、パウロとシラスは“神様、なぜなんですか。神様、あなたにお従いしたのになぜ捕えられ、むち打たれなければならないのですか”と、神に訴えてもおかしくありませんでした。しかし、パウロとシラスの口から出て来たのは、つぶやきやのろいではなく、神への祈りと賛美であったのです。どのような境遇に置かれても、罪赦された者のみが持つことのできる祈りと賛美に表される平安を二人は持っていたのです。

囚人たちはそこに、自分たちとは全く違う人間、全く違うものを持つ人間を見たのです。「聞き入っていた」とありますが、自分の犯した罪とその呵責、どうすることもできないやるせなさ・空しさ、家族に対する思い、このとき、囚人たちはそれらの全てを忘れて、不思議な世界を意識したのです。

その時、26節「ところが突然、大地震が起って、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった」のです。

それまでは、囚人たちは牢屋から出ることをどんなにか夢見ていたことでしょう。

しかし、誰ひとり逃げなかったのです。囚人たちは、大地震によって鎖が解けて束縛から解放されて逃げてもよかった。絶好の願ってもないチャンスだった。しかし、誰ひとり逃げなかったのです。

 

3.なぜ(why)なのでしょうか。

囚人たちは聖なる臨在に触れたのです。囚人たちのこれまでの人生の中で、この時、生まれて初めて最も意味ある聖なる時を味わったのです。鎖に繋がれて自由がないというのは辛いことです。行きたい所に行くことができない、会いたい人に会うことができない捕らわれの身。大地震によってその束縛からの解放の機会が訪れました。しかし、この時、囚人たちはパウロとシラスの姿を通して、神の聖なる臨在に触れて、大地震は彼らのそれまでのあり方、価値観をも揺り動かしたのです。

彼らはそれまで、自分の好きなように生きて来たのです。自分の心のおもむくままに。しかし、その結果、彼らは、強盗、詐欺、殺人・・などを犯してしまう身となりました。

そして、彼らはそのような悪をしてはいけないと思いながら罪を繰り返して来たのです。自分の心が悪に傾くのを自分でどうすることも出来なかったのです。

鎖が解けて、束縛から解放されて逃げることが出来たとしても、彼らは自分が悪に傾く心を持っているという罪の束縛から逃げることは出来ないことが分かったのです。

自分ではどうすることも、解決することもできない自分自身であることがいやというほど分かっていたのです。

そして、自分にとって最も必要で、なくてはならないものが、神の聖なる臨在であると知ったのです。囚人たちは、自分自身にではなく、外から彼らの魂を満たすものを本当は必要としていたことがわかったのです。囚人たちは自分自身には全く頼ってよいものが何もなく、神の聖なる臨在、神の愛と神の赦しこそが、自分にとって最も必要なものであると分かったのです。

あのヘレン・ケラー女史は、“目に太陽が見えるか見えないかは問題ではありません。大切なのは心に光を持つことです”。と言いました。

罪あるままでは心に光を持つことはできません。しかし、心を開いて、神からの光を受け入れるならば、心に光が差し込んで来て、罪という闇は消え去るのです。いえ、神からの光は人間の内なる闇を追い出すのです。

囚人たちは、心に神の臨在という光を得たのです。罪のために自分で自分をどうすることもできない真っ暗闇の心に、神のご臨在に触れて、彼らは光を得たのです。ですから、誰ひとり逃げなかったのです。人にとって、最も必要なのは罪からの解放をもたらす神の聖なる臨在なのではないでしょうか。

 

4、最後に、(how)それはどのようにしてもたらされたのか。

パウロとシラスは神のみ心に従って福音を宣べ伝えたために捕えられ、鞭打たれ投獄されることになりました。そのことは、人間的には不可解なことであったと思います。しかし、パウロとシラスは人間的には不可解であったとしても、神には何か深いお考えがあると信じ、全てを神にゆだねることが出来たのです。

神は、彼らが投獄されなければ、あるいは近づくことのできない囚人たちに神の臨在という光をもたらすために彼らを遣わされたのです。囚人たちのその後のことは何も聖書には記してありません。しかし、このピリピで起きた出来事は、後のピリピの教会の石据となったと思われます。神は不思議なことをなさるお方です。一見、人間的には不可解と思えることを通して、そして、人間の目には取るに足りない、いえ、人生の墓場とも言える牢屋の中で、自分などどうしようもない人間であると打ちのめされていたであろう囚人たちに、神は不思議なみわざをなさったのです。

皆さんの中で、今いろいろな事柄で心が暗く辛い中に置かれている方があるかも知れません。もし、心を痛め悩んでおられる方がありましたら、神はそのあなたにこそ、みわざをなさろうとしておられるのではないでしょうか。どうぞ、心を神に開いてください。神に心を開きさえすれば、光は差し込んで、神のみわざを拝することができます。

イエス・キリストは罪ある私たちに救いをもたらすために十字架にかかって、救いに至るみわざを成し遂げてくださいました。救いのみわざは完了しています。誰でもイエス・キリストを信じるならば、救いに与ることができます。