イエスの御手

「イエスの御手」  ヨハネ10:28、29  クリスマス礼拝(12月24日)

 

クリスマスおめでとうございます。

例年、クリスマスには、イエスが赤子として来てくださった事実とその意味するところをお話することが多いのですが、今年は、限られた時間の中ではありますが、イエスの一生を「イエスの御手」という視点からお話をすることにいたします。

 

1.赤子となられたイエスの御手

あかちゃんの手は小さくて柔らかいですね。

こんなにも小さいのか、と思うほどです。勿論、頭をなでたり、ほおずりしたりもなさるかも知れませんが、赤ちゃんに触る方はどこに触るかと言って、多くの人がその手に触れるのです。しかし、あかちゃんはその手で何かを作ったり、重い物を持ち上げたりはできません。小さくて、柔らかくて、かわいい手ですが、全く無力な手であるとも言えます。イエスは私たちと同じ、あかちゃんとなって、全く無力な存在となって来てくださったのです。

 

2.大工となられたイエスの御手

イエスの父ヨセフは大工でした。それで、イエスは30歳の公生涯をスタートされるまでは、家族を養うために精を出されたのです。重い材木を運び、のこぎりで切り、ノミを使い、釘を打ち、いろいろな家具を作られたことでしょう。イエスは家族を養うために汗水をたらして働かれたのです。

赤子としてこの世に来られ、そして少年期を過ごされ、成長されてからは、30歳になるまでイエスの手は労働に向けられたのです。公生涯に入られる前に関して簡単に述べてみました。

そして、公生涯に入られてからの、3年半のイエスの御手を見ることに・・・。

 

3.イエスが公生涯を始められて間もなくの頃のことですが、ツァラアトという重い皮膚病にかかった人がイエスの元にお願いに来たのです。

彼はイエスの元に来て「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます」と言いました。この病気になると、家族からも見捨てられ、死の谷と呼ばれる人里離れた所で死を待つしかなかったのです。そして、聖書にはツァラアトは恐ろしい伝染病であるだけではなく、神の裁きとしてツァラアトになった人のことも出て来ますので、イエスの元に来た人の心境は察してあまりあります。

その彼に対して、「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』」と言われました。このツァラアトに冒された人は、イエスが「手を伸ばして」自分に触れてくださって、どんなにか不思議な驚きと感動を覚えたかと思うのです。家族からも引き離され、何かきたないものを見るかの如くに見られ、人間扱いされないような仕打ちを受け、ずたずたに引き裂かれたであろう心の傷に、イエスが触れてくださったことが分かったのです。イエスの手は、ツァラアトという病いとともに、その心の傷をいやしたのです。

 

4.また、ある時、イエスにさわっていただくために、人々が子どもたちをみもとに連れて来ました。ところが、弟子たちは彼らをしかったのです。

ここは、子どもなどの来る所ではない、子どもなどは邪魔だと考えたのでしょう。

しかし、イエスはそれをご覧になって、憤って、彼らに言われたのです。

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」。そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福されたのです。

子どもを軽んじ、自分たちのことしか頭になく高ぶっている大人に対して、イエスは憤られたのです。イエスがもし、今の日本に来られたならば、自分の今さえよければ良いとして、将来の子孫である子どもたちに、莫大な借金のつけを回して平気な大人のあり方を憤られることでしょう。それは、神を畏れることのない人間の傲慢さから出ているものであるからです。

 

5.弟子たちの足を洗われたイエスの御手(ヨハネ13:1~)

イエスは十字架に着けられる前夜、弟子たちと最後の食事をされました。

イエスはその最後の晩餐で「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた」のです。弟子たちは皆びっくりしました。ペテロは驚いて「主よ。あなたが私の足を洗ってくださるのですか」と問いかけています。

人の足を洗うことはしもべのすることであったからです。

ヨハネの福音書には、「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、・・・その愛を残るところなく示された」とあります。死を前にして、イエスの愛は、弟子たちの足を洗う手となったのです。

6.十字架につけられたイエスの御手

ベン・ハ―という映画をご覧になった方もおられることでしょう。

ベン・ハ―というのは人の名前で、正確には、ジュダ・ベン・ハ―です。

彼はある出来事で濡れ衣を着せられ、奴隷船の船底で櫓をこぐ奴隷となってしまったのです。それは、幼友達メッサーラの冷たい仕打ちによるものでした。そしてジュダは奴隷とされ、愛する母と妹は牢獄に繋がれることになり、母と妹はツァラアトという伝染病に罹り、死の谷と呼ばれる所で死を待つしかない状況に追い込まれるのです。ジュダは自分と愛する家族を陥れたメッサーラに対する憎しみが増すばかりで、そのような自分をどうすることもできないのです。

そのような時に、イエスが十字架につけられることになりました。

イエスは十字架につけられて、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)と祈られました。その時、ジュダは不思議な体験をするのです。それまで、自分ではどうすることもできなかったメッサーラに対する憎しみが跡形もなく心から消え去ったのです。ジュダはイエスが十字架にかかられたのは、人を憎んで止まない自己中心でしかあり得ない正にこの自分のためであったことが分かったのです。

聖書はその自己中心でしかあり得ない人間の姿を「罪」と言っているのです。

そして、ジュダを自己中心から解き放ったのが、イエス・キリストの十字架の死だったのです。

十字架に釘つけされたイエスの御手は、すべての人を罪から救う救いの御手なのです。

罪からの救いは、今日の箇所では28節「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます」とある永遠のいのちです。29節「だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません」とある、神と共にある世界です。

イエス・キリストは神の御子であるお方です。

そのお方が、私たちに神の救いをもたらすために、十字架にかかって、人間の罪の刑罰を代わりに受けてくださって、私たちに救いをもたらすために人となって、あかちゃんとなって、来てくださったのが、今日のクリスマスです。

そして、神の御子が私たちのこの世に来てくださったクリスマスは、私たちが心にこのお方を救い主としてお迎えするためにこそあるのです。どうぞ、イエス・キリストを自分の救い主として心にお迎えなさってください。心からお勧めいたします。