イエスの系図の意味すること

「イエスの系図の意味すること」 マタイ1:1~17      12月3日

 

今日からイエス・キリストの聖誕を待ち望むアドベントに入ります。

今朝は、マタイの福音書の1章1~17節から、救い主が誕生されるに至った歴史的経緯とその意義に目を留めることにします。

 

1.まず、なぜマタイは系図から書き始めたのか。

ユダヤ人にとっては、系図は大切なものであったのです。それは自分たちが神に選ばれた民の一員であることを証拠立てる根拠であったからです。そのような訳で、マタイは同胞であるユダヤの民に、イエス・キリストの生涯を紹介するに当たって、まず系図から話し始めるという正当な手順を踏んでいるのです。

1節に、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」とありますが、アブラハムの子孫にはどのような意味があるのでしょうか。

パウロは「ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は『子孫たちに』と言って、多数をさすことをせず、ひとりをさして、『あなたの子孫に』と言っておられます。その方はキリストです」(ガラテヤ3:16)と言っています。パウロは神から霊感を受けて、神がアブラハムに約束された「あなたの子孫」とある、ひとりの人とは、キリストであるとはっきりと語っているのです。

ですから、神はすでにアブラハムに対して、あなたの子孫から救い主キリストが出ることを語っておられたのです。アブラハムがそのことを理解できていたか否かは分かりません。しかし、神の方では、アブラハムにそのことを示しておられたことは確かなことなのです。ですから、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」なのです。

次にダビデの子孫ということですが、

神はイスラエルの王ダビデに対して、「あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(Ⅱサムエル7:16)と約束されました。マタイの福音書のテーマは「王としてのイエス」を示すことにありましたので、マタイの福音書には特に「ダビデの子」ということばがしばしば出て来ますが、ユダヤ人たちは、メシアを指し示すことばとして「ダビデの子」と言ったのです。

ですから、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と言ったのは、このお方こそ神が最初から遣わすと決めておられた救い主であることを宣言して、マタイは福音書を書き始めたのです。ユダヤ人にイエスこそ「王なるお方」であることを示し、福音を伝えるために、この系図から始めることがマタイには必要であったのです。

 

2.17節の意味することに目を留めたい。

マタイは系図を14人ずつ3つのグループに分けました。

なぜ、14人ずつ分けたのかについてはいろいろ説があるのですが、7はユダヤでは完全数を表しますので、その2倍の14は十分な完全数ということであったとする説もあります。しかし、ともかく3つに分けたことには意味がありました。

それは、それぞれユダヤの歴史の三段階の一つずつを表しているからです。

そのことを通して、マタイは、イエスの誕生に至るまでのユダヤの歴史が、神の完全な支配のもとに導かれていることを示したかったのです。イエスこそ真の「王なるお方」であり、このイエスの誕生に至るまでも、神が歴史を導かれたということを明らかにしたのです。

 

3、最後に、この系図自体が示している神の恵みについて。

このマタイの記した系図は画期的なものであったのです。マタイの記した系図には、それまでのユダヤの系図にはあり得なかったことが記されているからです。

  1. 系図の中に異邦人の名が記されているということ。5節に異邦人の名が二人記されています。一人はラハブであり、もう一人はルツです。ラハブはエリコの住民でした。ヨシュアが率いるイスラエル軍によって滅ぼされるべき異邦人でした。ラハブは滅ぼされるべきエリコの住民であったのですが、イスラエルの民がエジプトから出て来た時以来の出来事から、主である神の不思議なみわざを知るに至って、このイスラエルの民を導く神が、真の神であることを信じるに至ったのです。それで、ヨシュアが遣わした二人の斥候をかくまい、「あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです」と信仰告白をし、「私の父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちのいのちを救い出してください」と願ったのです。ラハブは主なる神に対する信仰のゆえに、本来滅ぼされるべきエリコの住民であったのですが、いのちを救い出されたのです。申命記に「アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に、入ることはできない」(23:3)とあります。 私の個人的な主観ですが、このマタイの系図の中で、5節に記されている人物たちが光輝いているように見えます。そしてこのことは、イエス・キリストの系図にふさわしいものでした。神を信じるならば、ユダヤ人であろうとなかろうと、救いに与ることができる、そのためにイエス・キリストは来られたお方だからです。
  2.  マタイは、それまでの選民と異邦人との差別を取り除いたのです。
  3.  神の選びの民、ユダヤ人から見るならば、決して受け入れることのできない人たちにモアブ人がいました。しかし、そのモアブの女の名がイエス・キリストの系図に書き込まれたのです。
  4. もう一人の人物はルツです。彼女はモアブの女でした。
  5. それまでのユダヤ人の系図にはありえないことでした。
  6. この系図には、4名の女性の名が出て来ます。タマル(3節)、ラハブ(5節)、ルツ(5節)、そして、ウリヤの妻(6節 バテシバ)。 しかし、マタイはその男女の差別をも取り除いたのです。これも、イエス・キリストの系図にふさわしいものであったのです。
  7. ユダヤではそれまで、系図に女性の名を記すことはありませんでした。男性中心の社会であり、女性は軽んじられていた傾向がありました。
  8. そして、この系図には、罪人の名も記されている。 ラハブは良くご存知だと思いますが、エリコで遊女をしていました。多分、やむを得ぬ事情があったのかだと思いますが、ともかく遊女であったのです。 イエスは「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マタイ9:13)と言われましたが、まさしく罪人であるわたしたちのために来てくださったお方です。ですから、このこともイエス・キリストの系図にふさわしいものであったのです。 イエス・キリストによって、それまでの偏見と常識の隔ての壁が取り除かれたのです。いや、罪人の救いの道が開かれたのです。そのために、イエス・キリストはみどりごとなってこの世に来てくださいました。それを感謝し、祝うクリスマスのために心を備えさせていただきましょう。
  9.  そして、ウリヤの妻バテシバは、ダビデによって姦淫された側ですけれども、そのような女性でした。4人の女性の内、3人はいろいろな意味においても罪深い人たちであったのです。
  10. タマル(3節)は、舅ユダを欺いて、舅によってみごもり、パレスとザラを産みました。タマルの側には言い分はあったのですが、それでも姦淫を行なったのです。