神の公正なさばきがある

「神の公平なさばきがある」ローマ2:1~16          6月26日

パウロは1章において「異邦人に対する罪」を指摘しました。神の律法を与えられていないけれども、人間が自分の身の回りの世界について思いを巡らすならば、無限の力を持っておられる目に見えない創造者なる神がおられることは、明らかなことではないか。それなのに、あなたがたは神を畏れることなく、罪に罪を重ねていると、異邦人に対する罪を、パウロは指摘したのです。

そして、2:1「ですから、すべて他人をさばく者よ、・・・さばくあなたが同じことを行っているからです」と、パウロはこの2章において「ユダヤ人の罪」を指摘しています。3章10節において、詩篇14篇を引用しながら、「義人はいない。一人もいない」と、すべての人が罪人であると論を進めて行くのですが、それにあたって、異邦人の罪を指摘した後に、ユダヤ人の罪を指摘したのです。

当時、ユダヤ人たちは、自分たちは神に選ばれた民・選民であるとして、間違った特権意識をもっていました。そして、パウロが異邦人に向かって罪のリストを上げながら、これでもかこれでもかと言わんばかりに異邦人の罪を指摘したのを見たユダヤ人たちの中には、パウロの叱責を小気味よく感じた者たちもいたことでしょう。

しかし、今度は、そのパウロの罪に対する激しい糾弾が、自分たちユダヤ人に向けられたのです。3節「そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか」と問いかけて、5節「神の正しいさばきが現れる」と、パウロはユダヤ人の罪を指摘したのです。

神のさばきは、人間のさばきと違います。人間のさばきには、誤りもあり得ます。また、世の中には法律の抜け穴を見つけて巧妙に悪を行いながら、すり抜けてしまう人もいます。それゆえに、ほくそえんでいる人たちもあることでしょう。しかし、神のさばきを免れることは誰にもできないのです。私たちは自分がどのような行動を取るかを選ぶ自由をもっています。しかし、その結果を選ぶ自由はもっていないのです。神のさばきから誰も免れることはできないのです。そして神のさばきは正しいのです。神のさばきはなぜ正しいのでしょうか。

1.公平なさばきであるからです。

6節「神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます」とあります。私たち一人ひとりは、それぞれの人格を持ち、それぞれ自分の人生を与えられていますので、神は私たち一人ひとりの行いに応じて、与えられた自分の人生をどのような心をもって、どのように生きたかを問われるのです。12節「律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下(もと)にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます」とあります。

人は例外なく、自分たちが受けた知識と光にしたがって裁かれるのです。キリストについて聞き、その上でキリストを拒絶した者は、それにふさわしい裁かれ方をします。キリストについて聞いたことがなく、心の中に刻まれている律法を犯すような形で罪を犯した者は、それなりに罪に定められます。神のさばきが正しいのは、それは私たち一人ひとりに対して、公平なさばきであるからです。

2.えこひいきがないからです。

9,10,11節「悪を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉と平和が与えられます。神にはえこひいきがないからです」とあります。

「えこひいき」ということばのギリシア語の意味は、“顔によって取る(選ぶ)”という意味なのです。神は、みてくれが良いから選ぶとか、みてくれが悪いから選ばないとかはない、ということです。心・内なるものではなく、顔ということばに表される外側のもので神がさばきを下されることはないのです。

Ⅰサムエル16:7「人はうわべを見るが、主は心を見る」と神は預言者サムエルに語られました。人の心を正しく見ることができるのは神のみです。ですから、神のさばきにはえこひいきがないのです。

3.その人の行いに応じたさばきであるからです。

神の救いは「信仰」によってのみ与えられます。行いによる救いではありません。聖書の語っている真理です。信仰以外のものによっては誰も救いにあずかることができません。人間的に良いと思える行いによっても、何によっても「信仰」以外のものでは、神の救いにあずかることは誰もできない、それが聖書の一貫したメッセージであり、真理なのです。

それとともに、イエスは言われました。「良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことができず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。・・こういうわけで、あなたがたは彼らの実によって見分けることになるのです」(マタイ7:17~20)。木がその果実によって分かるように神を信じるという人の口から何が出て来るか、何を行うか、その行為によって、その人の信仰がどのようなものであるかが分かるのです。

神のさばきが正しいのは、神のさばきは公平であり、えこひいきがなく、そして、その人の行為に応じたさばきであるからです。パウロはこの2章において、神の正しいさばきがあることを提示して、ユダヤ人の罪を指摘しました。それではユダヤ人の罪は具体的にどのようなものであったのでしょうか。

心が伴わない信仰であったのです。Ⅰサムエル15:22「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」とあります。

「全焼のささげ物やいけにえ」については、レビ記1章に記してありますが、自分の自己中心や自己本位をすべて燃やしてしまって、神の前に出るということを意味していました。全焼のいけにえをささげるとは、全霊、全身、そして自分の生涯のすべてをささげること、自分のすべてが神の所有となるという儀式です。神の律法を与えられ、神の不思議なみわざを何度も何度も体験し、また何度も何度も罪を犯したにもかかわらず、神の恵みを体験したユダヤ人たちにとっては、その意味することは良く分かったと思うのです。

しかし、ユダヤの民は神が選ばれた民であったにも関わらず、外見的な形式は行っていましたが、心は神から遠く離れてしまっていたのです。神の律法を与えられ、神を知識としては知っているのです。天地万物を造られた創造者であり、唯一真の神であることを知識としては知っていたのです。しかし、人格的には知っていなかったのです。

神はきよいお方であることを知っていました。人は神のかたちに造られた存在であるがゆえに、神は人に対して神の語りかけに耳を傾け、きよく生きること、きよく生活することを願っておられることを知識としては知っていたのです。しかし、ユダヤ人たちは、そのように生きたくなかったのです。自分の好きなように生きて行きたかったのです。それゆえに、罪を指摘されても、それを悔い改めることを拒んだのです。

パウロがユダヤ人たちの罪の指摘をしたことを、今の私たちの問題として・自分の問題として受け止めることが大切なのだと思いますね。日本人は異邦人ですし、異教の強い精神土壌(汎神論)を根っこに持っているでしょうから、簡単なことではありません。自分の神信仰は、うわべだけのものではなく、心からのものとなっているのだろうか、神との人格関係となっているのだろうか・・。

皆さんが、夫や妻、そして家族との間に望まれる関係はどのようなものでしょうか。それは愛と信頼関係に満ちた人格関係であることでしょう。そんなものは無くても一向にかまわないなどという人はいないはずです。しかし、他者との愛と信頼関係を築こうとしても、なかなか容易ではないというのが現実ですね。しかし、たとえ現実がそうであったとしても、皆さんが願われるのは、愛と信頼関係のある人格関係をこそ求めておられると思うのです。

まして、神様は私たちとの人格関係をこそ、求めておられることはお分かりになると思います。

しかし、ユダヤ人たちは神との深い人格関係を求めようとはしなかったのです。ですから、パウロはユダヤ人たちの罪を厳しく指摘したのです。神の律法を与えられていながら、いえ、神の恵みを何度も受けながら、なおも心頑ななユダヤ人たちの罪を指摘しないではおれなかったのです。それは、彼らが心から悔い改めて、神との人格関係を持ってほしいからでありました。うわべの信仰ではなく、人格を伴う関係に入ってほしかったからです。

日本は福音宣教の困難な国です。イスラム圏を除いて、世界で一番、福音宣教、伝道することが困難な国です。自分の健康を維持することには労をいとわない多くの高齢者の方々がおられます。お隣のエナジートロンには、毎日、多くの高齢者の方々が通っています。雨が降っても、暑い日にも、驚くほど多くの人が通い詰めているのです。勿論、この地上での生涯・特に老後を健康で過ごしたいものです。しかし、永遠のことを真剣に考える人が本当に少ないですね。まして、自分自身の内なるもの、実質と向き合おうという人は残念ながら本当に少ないのです。

しかし、そのような国民の一人であるにもかかわらず、神の救いにあずかった恵みに心から感謝して、神を畏れて、この地上に与えられた人生を歩みたいものです。神を畏れ、神のみを慕い求める人々が、一人二人と起こされたならば、私たちの周囲・家庭や隣人関係は変わることでしょう。

他の誰かではなく、まず自らがそうでありたいと願っています。